公の場で当事者の女性が実名で性暴力について語るのは、これが初めてのことだった。松原監督は「ハルエさんも善子さんも、『いつかどこかで』と考えていたのだと思います」と話し、こう続ける。

「彼女たちはずっと声を上げたかったんですよね。でも上げたくても上げられなかったり、伝わらなかったり。満蒙開拓平和記念館という、満蒙開拓の歴史に真摯に向き合う場所ができたことで、彼女たちが話すことができるようになった。のちに取材をした記念館の館長はそのときのことをふり返って『当事者の方が公の場でここまで事実をつまびらかにするとは思ってもみなかった』と驚いていました」

 佐藤ハルエさんと安江善子さんによる「事実の告白」によって、事態は「乙女の碑」碑文製作に向けて動き出した。

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 松原監督が取材を通じて聞いた、忘れられないひと言があるという。

「佐藤ハルエさんが言った『伝えていくことが生きとるもんの務めじゃないですか』という言葉。これは彼女の生き様を凝縮したひと言だと思います。ハルエさんたちにとって、黒川開拓団という共同体とその幹部たちはいわば『強者』ですよね。ハルエさんはそうした上からの抑圧をものともせず、おもねることなく、自分の言葉で語ることを選んだ。これこそが最も、彼女が世に問うたことだと思います」

「難儀して難儀して、日本に帰ってきてからまた難儀して」

 佐藤ハルエさんは2024年1月、99歳で老衰のため亡くなった。松原監督はその瞬間もカメラを回し続けていた。家族以外に、ハルエさんを見送った人物が2人いる。

 ひとりは黒川開拓団幹部の次男で、当事者の女性たちへの謝罪と「乙女の碑」碑文建立のために奔走した藤井宏之さん。そしてもうひとりは、終戦当時まだ小学生で、満州で「接待役」を強いられた女性たちのために風呂を焚く係だった安江菊美さんだ。菊美さんは帰国後も絶えずハルエさんや善子さんらをサポートし続けた。

満州から引き揚げてきた女性たちは絶えず連絡を取りあい互いを励ましあった。右から2番目が安江菊美さん、その左隣が佐藤ハルエさん ©テレビ朝日

 菊美さんがハルエさんの顔を優しく撫でながら最後にかけた言葉もまた、ハルエさんの人生を痛切に物語っていた。

「ハルエさん、満州から一緒に難儀して帰ってきたに。あれからあんたすごいわ。本当に働いたね。働いて働いて、水が飲みとうて水溜りに口突っ込んで飲んだらボウフラがわいとって、それでも生きてこれたよ。難儀して難儀して、日本に帰ってきてからまた難儀して」