太平洋戦争は、敗色が濃厚になった後も終結まで多大な時間を要し、その間、本土空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下などで、数多くの血が流れた。
では、なぜ戦争をもっと早く終わらせられなかったのか? 保阪正康・新浪剛史・楠木建・麻田雅文・千々和泰明の5氏が語り合った。
◆◆◆
日米戦争は終戦構想なしに始まった
千々和 日本は当初、どのような戦争終結構想を描いていたのか。それを示すのが、1941年11月15日、大本営政府連絡会議で決定された「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」です。この会議には、首相、陸海相、関係閣僚、参謀総長、軍令部総長が出席することになっていましたから、東條英機首相(陸相兼任)、嶋田繁太郎海相、東郷茂徳外相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長らが参加していたと考えられます。
この「腹案」で、これから始めるかもしれない日米戦争を終結させるための大きな前提として考えられていたのは、同盟国ドイツが、ヨーロッパでイギリスを屈服させることでした。そうなれば、アメリカは継戦意思を喪失し、日本はアメリカとの戦争を引き分けに持ち込むことができる。そう日本は考えていたのです。つまり、ドイツの勝利が前提の、他人頼みの構想でした。
保阪 腹案を起案したのは、陸軍軍務局軍務課員・石井秋穂と海軍軍務局第二課員・藤井茂でした。彼らは上層部から「下案を作れ」と命令されますが、上層部は具体的な目標を示さなかった。そこで2人で相談したところ、「確固たる構想は作れないけれど、仕事だからやるしかない」と言って取り掛かったそうです。
戦後、石井に腹案について聞いたら、「言葉は悪いけれど、下僚の作文なんだよ」と認めていました。彼らの下案を上層部で練り直すのかと思ったら、そのまますんなりと決まって、石井も藤井も驚いたらしい。後世の我々から見ても唖然としますが、大本営政府連絡会議の出席者で、戦争の終結のプロセスを明確に考えていた人間はいなかったのです。



