法廷はその後、連日のように、取り調べ段階で聴取した被告の口供書の朗読、証人の証言が続けられた。当時の新聞は4ページ程度でスペースが限られていたうえ、生体解剖・人肉食という深刻な問題にためらいもあったのか、報道は断片的で、記事で事件の詳細をつかむのは不可能。

 国立公文書館に所蔵されている裁判記録に加えて事件関係者がつづった手記などもあるが、自己弁護も混じり、微妙に食い違っている。上坂冬子『生体解剖―九州大学医学部事件』(1980年、以下『生体解剖』)、生体解剖を実見した東野利夫の『真相―「九大生体解剖」最後の目撃証人の実証記録』(2019年、以下『真相』)など資料を突き合わせ、妥当と思われる事実を確認していくしかない。

東野利夫『真相―「九大生体解剖事件」最後の目撃証人の実証記録 』(2019年、文藝春秋)

生体解剖はなぜ行われたのか?

 事件の端緒が、石山外科出身で、召集されて西部軍司令部脇の偕行社病院に勤務していた小森卓という見習士官軍医だったのは間違いないようだ。同病院の副院長格で、九大医学部助教授の話もあったといわれる優秀な医師だった。交通事故で同病院に入院した西部軍防空担当参謀、佐藤吉直大佐の治療に当たったことから大佐と親しくなった。

ADVERTISEMENT

 1945年4月、病院内で話しているうち、撃墜されたB29の乗員で西部軍に捕らえられている捕虜の話題になり、佐藤大佐が持て余していることを漏らすと、どうせ処刑されるのだったら自分に任せてもらえないかと持ち掛けた。大佐は承諾した。この時点で両者の間では実験手術を名目にした生体解剖が了解されていたとみられる。

 小森見習士官は石山外科で同僚だった開業医に「手術」を持ちかけたが断られ、“恩師”の石山福二郎教授に頼み込んだ。

「九大事件」摘発を伝える西日本新聞

 5月18日に法廷に提出された石山教授の口供書は、1945年5月12日に小森見習士官から電話で「負傷した外国人の治療に関して来てほしい」と言われたが、「大学に規定がない」として断った。しかし、注射に関する問題だったので行ったが、患者は死亡。遺体を解剖した、としていた。

 石山教授は胸部外科の権威だったが、当時輸血用の血液が不足していたことから、海水で代用できないかと考え、医学部内で研究会を作って研究を進めていた。他の被告や証人の証言からは石山が「実験手術」が生体解剖であることを認識したうえで積極的だったことがうかがえる。