「時がそうさせるんです」
西部軍に捕虜収容所はなかったが、司令部近くに仮設の収容施設があり、1945年5月5日、大分県竹田市で日本軍戦闘機の体当たり攻撃で撃墜されたB29の搭乗員10人が収容されていた。
この年、3月10日の東京大空襲以降、B29の空襲は大都市を標的に激化していた。水谷鋼一・織田三乗『日本列島空襲戦災誌』(1975年)の5月5日の項には「(午前7時すぎより)別働約20機は大分県に侵入。同地航空施設を攻撃して、佐伯付近より脱去した」とあり、別行動の10機と合わせ、日本側の「総合戦果」は「撃墜3機(うち不確実1機)」と書かれている。「手術」を受けたのはこのうちの1機の乗員で、死亡者1人を除く10人が福岡に運ばれ、機長だけは「情報に価値あり」として東京に移送されていた。
「文藝春秋」1957年12月号に載った平光教授の「戦争医学の汚辱にふれて―生体解剖事件始末記」では、石山教授から電話で「あす、西部軍の依頼命令で負傷した米軍飛行士の手術をしたいから、大きい解剖(実習)室を貸してもらいたい」と依頼があった。平光教授が事情を聴き返すと、石山教授は「時がそうさせるんです」と答えた。しかし、翌日は来ず、来たのはそれから4~5日たってからだったという。
1945年5月17日、西部軍の所要の手続きを踏み、米軍飛行士2人をのせたトラックが九大に到着。石山教授と2人の助教授、講師が出迎えた。解剖実習室に運ばれた捕虜1人はけがをしており、治療を受けると思っていたようだ。
教室には看護婦長ら看護師3人、記録係ら十数人がおり、捕虜と同じトラックで到着した佐藤大佐ら西部軍幹部も見守った。執刀は石山教授、第一助手は小森見習士官で、麻酔注射で眠っている2人からそれぞれ肺の片方を摘出。海水を注射し、2人は“手術”の途中で死亡した。



