肺、胃、心臓、肝臓……次々と
2人の助教授と講師は1人目の途中から尋常の手術でないのに気づいたが、何も言わず、そのまま従った。途中で外出先から帰った平光教授が入ってきたが、しばらく見て出て行った。終了後、解剖学教室の助教授らが胃、肝臓、腎臓、心臓などを切除して持ち去った。彼らはのちに「平光教授の命令だった」と供述した。
2回目は5月22日。捕虜2人に対して、1人からは胃全部と心臓を摘出し、もう1人からは肝臓を切除した。この時、小森見習士官が肝臓を持ち帰ったことが「食肉事件」に結び付く。3回目は5月25日に1人の脳を切開。最後となった4回目は6月2日で、捕虜は3人だった。1人は代用血液としての海水注射、1人は胸腔内の縦隔の手術、残る1人は肝臓の半分の摘出だった。
一部で不満が出ていたが、表立った抗議などはなかった
1回目の後、助教授2人は「軍が手術を望むなら軍病院でやるべきで、九大でやるのは筋違い」などと訴えたが、石山教授は「軍の命令だ」と跳ねつけた。そのため、石山教授の“一番弟子”とされた助教授は3回目から不参加。他のメンバーの間でも「必要がない実験」「こんなこと嫌」などと不満が出ていたが、表立った抗議などはなかった。石山教授は医学界の権威で、学内では「独裁者」と呼ばれており、その威光には逆らえなかったのだろう。
『生体解剖』によれば、4回の中間に開かれた学会で、石山教授は代用血液としての海水の有効性について発表しており、同書は「自ら最も関心の深い研究テーマに沿って生体解剖を行っている」と書いている。
小森見習士官が焼夷弾の直撃により死亡
最後の「実験」の約半月後、福岡は大規模な空襲に見舞われる。『日本列島空襲戦災誌」掲載の「西部軍管区司令部発表(6月)20日6時」は、B29約60機が19日22時半ごろから20日0時半ごろまでの間、福岡市に主として焼夷弾攻撃を実施したと記している。「死者213人、負傷者565人、焼失家屋1万3309戸、罹災者5万7883人」(同書)。実際はもっと多かったといわれる「福岡大空襲」だった。
そのさなか、出先から偕行社病院に戻った小森見習士官は焼夷弾の直撃を受け、九大第一外科に担ぎ込まれた。駆けつけた石山教授が右足を切断。いったんは命を取り留めたが、佐賀県の陸軍病院に移ってから破傷風にかかり、九大に戻された後、7月9日に死亡した。
約3年後に獄中で自殺した石山福二郎教授は数通の遺書を残していた――。


