さらに、証言映像以上に来館者を釘付けにするのは、第4展示室の「大型証言本」だ。南風原の陸軍病院に看護要員として動員された1945(昭和20)年3月23日から、終戦を知らずに壕に隠れていたひめゆり学徒が米軍に収容された9月上旬まで、凄惨を極めた沖縄戦最終盤を11の出来事に分け、元学徒の皆さんが短い証言として鮮やかにまとめたものだ。
訪れた人は皆、大きな文字で書かれた大型証言本のページを何回も何回も繰ることになる。すると、集中力の続かない小学生でも、老眼の進んだお年を召した方でも、元学徒の皆さんが目にした惨たらしい体験に自然と没入してしまう。
筆者が一番印象に残ったのは、高等女学校の徳田安信先生についてまとめた証言だ。米軍が壕にガス弾を落としたことで、徳田先生は脳症を起こしてしまう。教え子の生徒を見ても誰かわからず、苦しがって暴れ、落ちないようにベッドに縛りつけられる。
正気を失った脳症患者の対応は、見知らぬ負傷兵でも心が削られる。ところが目の前にいるのは、自分たちを陰になり日向になり支え、導いてきた先生なのだ。教え子が暴れる先生を目のあたりにしても、どうすることもできない。一体どんな生き地獄なのだろう。
元ひめゆりの方たちは、当時の沖縄屈指のエリートだ。戦後は教職に就いた人も多く、伝える力にかけてはひときわ秀でたものがある。しかし文章力云々の前に、この大型証言本の凄みは「彼女たちが経験した壮絶な体験を、素直に言葉にできたことだ」と、普天間館長は語る。
体験者じゃなくても戦争体験は伝わる。確信した元学徒たちとの旅
普天間館長は1989(平成元)年の開館以来、30年もの間、30名の元学徒の方々と資料館で仕事を共にしてきた。彼女たちの戦後の葛藤を目のあたりにし、2021年のリニューアルでは新たに第5展示室「ひめゆりの戦後」を作ったという。
「1945(昭和20)年6月18日の学徒解散命令後、陸軍病院から『壕から出るように』と命じられ、そこから皆、バラバラに行動することで犠牲者が一気に増えていきます。砲爆撃の中を逃げ回っているうちに学友が亡くなり、自分だけ生き残ってしまう。『生きるも死ぬも一緒よ』と誓い合った学友に申し訳ないという思いを抱えるようになるんですね。重傷の学友を壕や砲弾の降る戦場に置き去りにしなければならなかった生徒もいて、そのことで自責の念に苦しんだ生徒もいます。
また、学友のご遺族が娘の消息を求めて何度も訪ねてきて、『わかりません』と言うと『同じ学校なのになぜわからないんだ』と怒られたり、『同じ壕にいたのに、なんでウチの娘の髪の毛を引っ張ってでも、一緒に逃げなかったのか!』と、怒りをぶつけられることもあったそうで。そのような亡き学友やご遺族への思いから、元ひめゆりの方々は戦後長い間、戦争体験を語ってこなかったんですよね」(同上)
1980年代となり、戦争体験が風化する中、ひめゆりの同窓生たちが平和資料館を作ることを決意する。普天間館長は、戦争体験者である彼女たちと戦後世代の継承者である自分たちとの間に、大きな溝があることも実感させられた。
「日頃から熱心に伝える活動をされていて、来館者も釘付けになって話を聞いている。そういう熱意のある元学徒の方が、『やっぱり戦争体験した者じゃないと、自分はわからないと思うよ』と、ふと漏らしたことがあったんです。他にも『本当に戦争で厳しい体験をした人は、ここに来て、話なんかできないよ』って、おっしゃる方もいて。だから『元ひめゆりの方々がいなくなったら、もう戦争体験って伝わらないのかな……』と、無力感を感じた時期もありました。でも、元学徒の方々もお年を召してきて。次世代への継承を考えるために、 2003年にみんなで実行したのがヨーロッパの平和資料館を巡る旅だったんです」(同上)
アウシュビッツ=ビルケナウ博物館やアンネ・フランクの家など、欧州の平和資料館を皆で訪れた。エポックメイキングだったのは、やはりアウシュビッツ。唯一の日本人ガイドを務める中谷剛さんに案内してもらった時のことだ。




