楽しいことやおかしいこと。それは想像以上に大胆なエピソードの数々だった。廊下に水を撒いて、先生たちが滑って転ぶようにいたずらを仕掛けたり、英語の答案用紙をクラス一斉に白紙提出したり、授業をボイコットして謹慎処分になったり。
普天間館長はさらにこう付け加える。
「第1展示室に当時の『先生のあだ名リスト』がありますよね? 私も約30名の元学徒の皆さんと、ずっと資料館の仕事をしてきましたけど、ひめゆりの方々は戦後何十年も経っているのに、先生のモノマネをしたりして周りを笑わせるんですよ。だから当時の教師と生徒の関係や親子関係、学友同士の関係は、今と違ってすごく密で、誇り高いものだったんですよね。それが第1展示室や、第4展示室の227名の遺影の下に記された紹介文の文章に色濃く表れています」
亡くなった227名の元学徒と教職員の遺影の下に、一人ひとりの生前のエピソードが追加されたのは、2004年の最初の館内リニューアルだった。鼓笛部(吹奏楽部)や卓球部などの部活動に、両親や兄弟との関係性。教室で呼ばれていたあだ名や学級エピソード、クラスでの存在感。100文字ちょっとの短い文章の中に、故人の魅力がギュッと詰まっている。
動員は在校生の5分の1。元ひめゆり、陸軍病院動員の経緯
幸せな学校生活もつかの間、沖縄本島は米軍の空襲に見舞われるようになる。1944(昭和19)年7月7日、ついにサイパン島が陥落したのだ。そして同年10月10日の那覇大空襲に続き、翌45(昭和20)年1月22日には、ひめゆりの校舎や図書館、寮、運動場までもが米軍の爆撃に遭う。その時のことを、師範学校 本科1年の宮城フミさんは本島北部の本部町に住む父に宛て、気丈にもこう手紙に綴っている。
《お父さん!!
(一月)二十二日は突然の敵機来襲のため家の方でもさぞかしごびっくりなされたことと存じます。
(中略)私も一日中の空襲もなんなく無事に避け今また元気一ぱいで学徒の道に邁進致して居ますから何卒御安心下さいませ。この前は目のあたりに爆弾投下をみせつけられ実にくやしく無念の涙をながしました。ほんとに焼いても焼いてもあき足らない鬼畜米英の奴等です。》(宮城フミさんの手紙)
鬼畜米英と、実際に手紙に記していることに驚く。軍国少女らしい勇ましい内容を書きつつも、読みやすく力強い筆致で、両親に心配をかけまいと明るく努めている。そして文末は、「ほんとに焼いても焼いてもあき足らない鬼畜米英の奴等です」。減らず口にも見える内容に、精一杯のユーモアが滲んでいる。




