さらに筆者を驚かせたのは、師範学校女子部と第一高等女学校のすべての在校生が、壕の中に造られた沖縄陸軍病院に看護要員として動員されたわけではないという事実だった。病院へ動員されたのは、1945(昭和20)年3月23日。米軍による沖縄本島攻略作戦の初日だ。第1展示室の学校年表には、このように記されている。

1944(昭和19)年7月下旬 県外疎開開始
1944(昭和19)年8月 離島の生徒が帰省(情勢悪化のため荷物をまとめて帰省させる)

1944(昭和19)年9月 離島の生徒たちに帰校するよう電報を発信

 陸軍病院への動員実態について、普天間館長はこのように説明する。

ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長

「米軍の沖縄侵攻が予想されるようになった1944(昭和19)年7月、政府は沖縄県民を県外へ疎開させる方針を定めます。疎開対象は、男性は60歳以上15歳未満。女性に年齢制限はありませんでしたが、2つの厳しい条件がありました。1つは、疎開先で高齢者や幼児の世話に必要な者。もう1つは、軍が不要と認めた者。さらに、疎開先に親戚や知り合いといった縁故があることも条件でした。

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 この条件をクリアした第一高等女学校の生徒たちの中には、疎開した者もいました。ですが、師範生はさらに疎開先の学校に転校を受け入れてもらわなければならず、疎開する者はそれほど多くはいませんでした。

 当時、師範学校女子部と第一高等女学校の在校生は1000名ほどいました。その中で動員の対象となったのが、15〜19歳。卒業間近の最上級生は除いて、師範学校は予科3年と本科1年の生徒が対象。女学校は3〜4年生が対象でした。対象学年の人数を合わせると、ちょうど在校生の半分、約500名だったんですね。

 1945(昭和20)年3月23日、米軍が攻略作戦を開始したのを機に、寮にいた生徒200名以上が場当たり的に南風原の陸軍病院に動員されることになります。その中には卒業式を待っていた最上級生や、帰るタイミングを逸した離島の下級生までもが一緒に動員されることになったんです。軍から要請された人数は約200名。実際に病院に動員されたのは222名。ほぼぴったりだったんです」(同上)

今、見てきたかのように語る証言映像と戦争手記

 資料館の歩みを進めると、来館者はハイライトである第3展示室「ひめゆりの証言映像」と第4展示室「鎮魂」に行き着く。

 絶え間ない米軍の砲撃に耐えながら、腐臭や死臭、大小便の強烈な臭いが充満する壕内の陸軍病院で、元学徒の方々が目にしたのはおびただしい数の負傷兵だった。手足のない兵隊や気が触れてしまった脳症患者の兵隊。取っても取っても患者の傷口から湧いてくるウジ。南部撤退の際には、重症の患者に青酸カリ入りのミルクが配られ、医療の名のもとに行われた自決の強要をも垣間見る。

資料館内に展示されている、南風原の沖縄陸軍病院の様子を描いたイラスト

「ひめゆりの証言映像」では、元ひめゆりの方々が戦場跡で当時の惨憺たる状況を語る。解散命令を告げる恩師から「ここで見た話を後世に伝えてほしい」と直接頼まれたことなど、映像からは強い使命感を感じる。普天間館長も「『戦争体験をしていない人にも絶対に伝えなければ』という迫力、臨場感が証言映像によく表れている」と話す。