“幽霊の清太”が重要である理由
ふたりの純粋性を浮き上がらせようとしたとき、清太と節子が共同生活を始めるまでの過程を、清太に同情できるように受け身に構成してしまっては、清太の意思が浮かび上がらない。間違った判断かもしれないが、清太はそれを自分の意思でよかれと思って選んだのだ。そういう要素が必要になる。だからこそ、かつての自分のポイントとなる行動について、客観視する幽霊の清太が重要なのだ。あのとき、それを選んだのは間違いなく自分だった、という悔恨とともに。
その証拠に、横穴での共同生活が始まると、幽霊の清太は登場しない。そこにはもう「たられば」の選択肢は存在しない。あとは終局へと向かう一本道だからである。
根底にある「母の存在感の大きさ」
清太と節子の共同生活のシーンは、再見するとそこに清太の孤独とその根底にある「母の存在感の大きさ」が印象に残る。
蛍を捕まえてきて蚊帳の中に放つふたり。その後、眠った節子を見た清太は「お父ちゃん、どこで戦争してはんねんやろな」とつぶやいた後、寝転がっていって節子を抱きしめる。節子は苦しがって、清太の腕から逃げ出し、清太は自分の布団に戻って節子に背を向け、丸まって眠る。清太は寂しく、誰かに甘えたいのである。しかし甘えられる相手は妹の節子しかいない。
この節子を抱きしめるシーンは、原作だともっと生々しく描かれている。
「思わず二人体を寄せあって、節子のむき出しの脚を下腹部にだきしめ、ふとうずくような昂まりを清太は覚えて、さらにつよく抱くと『苦しいやん、兄ちゃん』節子が怯えていう。」
ここはにある“昂まり”は、大人の性欲というよりも、もっと未文化なエロスと地続きの「甘えたい」欲求であろう。端的にいえば清太は、節子の中に母を探しているのである。
その後に野菜泥棒がバレて、しこたま殴られた清太が、駐在から解放されるシーンがある。自分のところに戻ってきて涙を流す清太を見て節子は「どこ痛いのん? いかんねぇ、お医者さん呼んで注射してもらわな」という。この台詞、原作でははっきり「母の口調で」と書かれているし、絵コンテのト書きでは、この台詞の後半に「母の笑いを含んだいたずらっぽい声」とメモが付記してある。映画では当初は、母親の声を重ねて聞かせる予定だったのかもしれない。



