どれもおばさんとの関係性の中で「もしかすると、もうちょっといい振る舞い方があったのではないか」という、客観的な視点から考えたくなるシーンである。このように幽霊の清太の視線を意識することで、観客は清太自身のおばさんへの苛立ちや迷いを、同情や共感だけでなく、少しひいた目で見ることになる。

 ちなみに本作の美術監督の山本二三のレクチャー(2009年に工学院・朝日カレッジで行われた「山本二三が語る背景美術――火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女の世界」)によると、清太の顔のモデルとなったのは、興福寺の阿修羅像。その三面ある顔のうち唇を噛んだ表情のもの(右手側の顔)を参考にしたという。この顔は「反抗的」ともいわれる、子供らしい苛立ちを浮かべしている。

清太の顔のモデルとなった興福寺の阿修羅像。右手側(写真向かって左)の唇を噛んだ表情を参考にしたという(興福寺HPより)

 また幽霊の清太と節子やその周囲に使われる朱色も同じく阿修羅像の色をイメージした色使いで、どちらも高畑監督によるアイデアだという。

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映画『火垂るの墓』Netflix公式Xより

高畑監督が描きたかったキャラクター像

 高畑は映画制作にあたって「『火垂るの墓』と現代の子供たち」という文章を記している。この文章は製作発表会見で、記者発表資料としても配布されたもので、高畑が清太をどのようにとらえていたかが記されている。

「清太少年は、私には、まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならない。そしてほとんど必然としかいいようのない成行きで妹を死なせ、ひと月してみずからも死んでいく」(徳間書店『映画を作りながら考えたこと』所収)

映画『火垂るの墓』Netflix公式Xより

現代人と通じる清太の心象と、「それだけでいいのか」という問い

 この“必然の成り行き”とは、先述のとおり親類のおばさんの家を飛び出し、池のそばの横穴で暮らし始めることである。

「(清太は)耐えがたい人間関係から身をひいて、みずから食事を別にし、横穴へと去るのである」
 

「このような行動や心のうごきは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や行動や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう現代の青年や子供たちとどこか似てはいないだろうか。いや、その子供たちと時代を共有する大人たちも同じである」(ともに前掲書)

 こうした部分を読むと、高畑は清太の中に現代人と通じる心象を読み取り、同時に映画を通じて「それだけでいいのか」と問いかけようとしていることが感じられる。

 では清太は、そのような「疑問の対象」としてだけ扱われているのか。それがそうでもないのだ。文章の後半にはこうも記されている。