画面は、その言葉を発した節子と、それを見つめる清太を切り返して、はっきり清太はその瞬間、節子の中に「(もういないはずの)母を見た」というふうに見せている。そして清太は、膝をついて節子を抱きしめるのである。

 このように映画の後半は「母のように生活を支えて節子の純粋さを守りたい清太」と「清太は自らの寂しさの救いを、節子の中にある母に求めている」という、庇護するものと庇護されるものが清太の中でぐるぐると円運動しているのである。そして清太のこの自意識の円運動の中心にいるのが「イノセンスの結晶」である節子の存在なのである。

原作小説『アメリカひじき・火垂るの墓』(野坂昭如/新潮文庫、1972年)

 もちろん節子は単なる4歳児でしかない。節子の死後、池の畔でひとりでただの子供らしい子供として時間を過ごしていた節子の姿が点描される。それは清太の勝手な思いとは別の、単なる4歳児としての節子である。そこを描くのは節子の魂の解放でもあろう。

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 こうして幽霊になったふたりは再会し、そこでようやく普通の兄妹として振る舞うのだった。

「未完成な少年」として描かれる主人公の姿

『リトル・ニモ』でブラッドベリが考案したオーメンは、ニモにとって乗り越えるべき存在であった。しかし清太の分身である幽霊の清太は、決して清太が乗り越える対象ではない。

 そのかわり清太と幽霊の清太は、観客の中で、一対のものとして生きていくことになる。清太と幽霊の清太がともにいることで、彼が悲劇を生きて同情を誘うだけの存在ではなく、かといって頑固で愚かな振る舞いをするだけでもない、ひとりの「未完成な少年」として存在することができるのだ。それを心のなかで完成させるのが映画『火垂るの墓』を見るということでもある。

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