「物語の中心であり、救いであるもの」

「物語の悲惨さにもかかわらず、清太にはいささかもみじめたらしさがない。すっと背を伸ばしてひとり大地にたつさわやかささえ感じられる。十四歳の男の子が、女のように母のようにたくましく、生きることの根本である、食べる食べさせるということに全力をそそぐ。/人を頼らない兄妹ふたりきりの横穴でのくらしこそ、この物語の中心であり、救いである。過酷な運命を背負わされたふたりにつかの間の光が差し込む。幼児の微笑み。イノセンスの結晶」(前掲書)

 “現代っ子的な不快なことからの逃避”が、しかし結果としてそこにかけがえのない「イノセンスの結晶」を生んでしまうアンビバレントなあり方。しかも、その逃避する姿には、意思の強さや潔癖さすら感じさせる。この単純な否定も単純な肯定も受け付けない、複雑な要素が絡み合った存在が清太というキャラクターなのだ。

 中でも頑固さと紙一重の意思の強さについては、高畑自身も別の文章で書いているとおり「自我のせいで可愛げに欠けていた」『母を訪ねて三千里』の主人公マルコとよく似ている。例えば、銀行に向かう電車の中で未亡人の小言を思い出している横顔、オルガンを弾いて未亡人に咎められた時にムッとした表情をみるとき、清太の中にマルコと共通の気配を感じることができる。

故・高畑勲監督〔2009年撮影〕 ©文藝春秋

悲劇に流されるのではなく、自らの選択でその成り行きを選んでいく

 清太というキャラクターを同情できるキャラクターとして演出するのはある意味たやすい。保護者もなく、居候先では嫌味をいわれ、4歳の妹の面倒をみなくてはならない。世間の無理解にじっと耐え、その中で死んでいくように描けば、悲劇の主人公として十分成立する。しかし原作からして清太はそのような人物には書かれていないのである。

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 野坂も高畑との対談で「心中物だから」と語っている通り、悲劇に流されるのではなく、自らの選択でその成り行きを選んでいくところに『火垂るの墓』の本質がある。その意思があるからこそ、ふたりの共同生活の純粋性が際立つのである。