人工知能を相手に研究する道

 どうやら豊島は自宅でひとり、将棋ソフトを相手に研究しているらしい──。

 うっすらとは予感していた。豊島に内面の揺れが見え隠れするようになったのは2人で研究を始めてから6年ほどが経った頃だった。2014年の春、豊島は第3回電王戦に出場し、人工知能を搭載した将棋ソフトと対局したそれを境に何かを模索し始めたようだった。葛藤しているようでもあった。少なくとも斎藤の目にはそう映った。

 棋士とコンピューターはどちらが強いのか。電王戦はそれをテーマに始まった大会だった。だが、人工知能の進化とともに将棋ソフトが急激に力をつけ、棋士に肉薄してきた。そしてトップ棋士が敗れる事態になると棋界にはデリケートな空気が流れるようになった。

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 もし、棋士に勝るソフトがこの世に現れたとすれば……、棋士がコンピューターに勝てないと証明されたとしたら……、棋士の存在意義はどうなってしまうのか。人々はもう、人間同士の対局に関心を抱かなくなってしまうのではないか。

いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)

 まだプロの階段を上り始めたばかりの斎藤にもそうした危機感はあった。おそらく3歳上の豊島はそれ以上の切実さで感じていたはずだった。ただ、それでも豊島は電王戦への出場を望んだ。そこに棋士として前に進むための何かを見出しているようだった。そして、その年の秋の王座戦で羽生善治に敗れたのを機に踏み切った。人間ではなく、人工知能を相手に研究する道を選んだのだ。

 斎藤は豊島がいなくなった日々の中、ふと憧れの人の胸中を思うことがあった。一日中、物言わぬ人工知能を相手にするのはどれほどの孤独だろうか。そこまでしてAIソフトに一体、何を見たのだろうか。

 その後、豊島の勝率は年を追うごとに上昇していった。2017年度には7割を超えて、年間表彰の一つである敢闘賞を受賞した。だが、タイトル戦に限れば、羽生との王座戦の後に2度挑戦して、いずれも敗れていた。関西棋界のホープはいまだタイトルに手が届かないままだった。そして28歳の夏、彼に5度目のチャンスが訪れた。

いまだ成らず 羽生善治の譜

鈴木 忠平

文藝春秋

2024年5月27日 発売

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次の記事に続く もう、4年前の自分とは違う…羽生善治との再決戦の前、若き挑戦者・豊島将之が人知れず掴んでいた“確信”