ノンフィクションライター・鈴木忠平さんの『いまだ成らず 羽生善治の譜』が、第37回「将棋ペンクラブ大賞」の文芸部門大賞を受賞しました。

 その受賞を記念して、本作の中で最も大きな反響を呼んだ「第3章 人が生み出すもの」のエピソードを全話紹介します。豊島将之九段を視点人物に、土井春左右さん、斎藤慎太郎八段、そして羽生善治九段の人生が交錯する物語をお楽しみください。(全6回の6回目/最初から読む

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 夏の長い陽が傾く頃になって、東京都心部の気温はようやく下がり始めた。2018年7月、千代田区の都市センターホテルでは棋聖戦第5局が続いていた。対局室には開始前の喧騒が嘘のような静けさがあった。記録係がペンを動かす音から互いの息づかいまでが聞こえそうな静寂の中、豊島は耳栓をしていた。限界まで思考を研ぎ澄ますためか、微かな音も遮断して盤面を見つめていた。

 勝ちがある──。

豊島将之(左)と羽生善治 ©︎時事通信社

王者・羽生善治が誘い込んだ未知の局面

 対局開始から8時間あまり、豊島はもう少しで光が見えそうなところまできていた。いくつもの分岐点を越えて、ようやくそこまで辿り着いた。同時に、あらためて羽生の底知れなさを感じてもいた。中盤に差し掛かった局面だった。45手目、棋界の王者は互いに交換したばかりの角を早々に自陣へと打った。ほとんど実戦で使われたことのない、リスクも伴うような手であった。豊島は研究でその手を見たことはあったものの、指しこなせる確信がなかったため深入りはしなかった。何より実戦で指してくる棋士がいるとは思えなかった。羽生はそんな冒険とも言える手をタイトル100期のかかった対局で放ってきたのだ。

 勝負のみを考えれば、嫌な手には違いなかった。その手を境に未知の局面に突入するしかない。だが、豊島の胸には掻き立てられるものがあった。どんなに重要な勝敗が目の前にぶら下がっていようとも、自らの好奇心を封じ込めない。それはまさに羽生を羽生たらしめてきた手のように思えた。それに対し、この日の豊島も立ち往生することはなかった。羽生の角打ちが生み出した混沌とした中盤戦を攻めながら進んでいった。そして、深い森を抜け出した終盤戦の最中、ついに勝ち筋を見出したのだった。