ノンフィクションライター・鈴木忠平さんの『いまだ成らず 羽生善治の譜』が、第37回「将棋ペンクラブ大賞」の文芸部門大賞を受賞しました。

 その受賞を記念して、本作の中で最も大きな反響を呼んだ「第3章 人が生み出すもの」のエピソードを全話紹介します。豊島将之九段を視点人物に、土井春左右さん、斎藤慎太郎八段、そして羽生善治九段の人生が交錯する物語をお楽しみください。(全6回の1回目/つづきを読む

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 AIは盤上の宇宙を探究する同志にも師にもなりうる──豊島将之はそう感じながら、同時に、人が指す将棋に思いを巡らせた。

2022年11月22日
第72期王将戦 挑戦者決定リーグ戦
東京・千駄ヶ谷

 あの敗局から9カ月、羽生は再びスポットライトを浴びていた。この日、行われたのは翌年1月から始まる第72期王将戦の挑戦者を決める対局だった。20歳の五冠王、藤井聡太に挑むのは誰か。その戦いに羽生は勝った。将棋界待望の一戦を実現させたのだ。

羽生善治 ©︎文藝春秋

「対戦しないと分からないところも多々あると思うので、それはシリーズが始まって体感していくんじゃないかなと思います。まずは自分自身の気力を充実させて臨むということに尽きるのではないでしょうか」

 藤井との初めてのタイトル戦について、棋界の第一人者は幾分、力を込めてそう言った。

時の流れに逆らうようなカムバック劇

 劇的なカムバックだった。羽生はこの年の2月に順位戦A級から陥落したばかりである。彼の時代は終わったのではないか──多くの者がそう考えたが、名人の渡辺明や王座の永瀬拓矢などトップ棋士が集う王将戦挑戦者決定リーグを6戦全勝で勝ち抜けた。前年度、3割台に落ち込んでいた勝率も今シーズンは7割に迫っていた。まるで時の流れに逆らうようにタイトル戦の舞台に戻ってきた。羽生に一体、何があったのか──。不屈を体現するようなその姿に世の耳目が引きつけられていた。

 豊島将之はそんな羽生を敗者として見つめることになった。羽生に次ぐ4勝1敗という成績でこの日の挑戦者決定リーグ最終戦を迎えた。全勝の羽生との直接対決に勝てばプレーオフに持ち込むことができたが、中盤に指した一手が響いて敗れた。

「ひどいうっかりをしてしまって、そこからもう、だめになりました」

 終局後の取材では静かにそう語った。マスク越しに自虐の苦笑いこそ浮かべたが、言葉に険はなかった。感情の表出を最小限に、いつも淡々とした佇まいを崩さない。豊島はそういう棋士だった。