ノンフィクションライター・鈴木忠平さんの『いまだ成らず 羽生善治の譜』が、第37回「将棋ペンクラブ大賞」の文芸部門大賞を受賞しました。

 その受賞を記念して、本作の中で最も大きな反響を呼んだ「第3章 人が生み出すもの」のエピソードを全話紹介します。豊島将之九段を視点人物に、土井春左右さん、斎藤慎太郎八段、そして羽生善治九段の人生が交錯する物語をお楽しみください。(全6回の2回目/つづきを読む

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羽生先生には、自分には見えないものが見えている

「50秒、1、2、3……」

 感情を排した声が対局室に響いていた。24歳の挑戦者、豊島将之は秒読みに追われていた。秒針がわずか一周する間に限界まで思考を伸ばし、決断しなければならない。脳内へ血液を結集させるようなその作業をもう10分以上も続けていた。緊迫の室内、豊島の小さな身体が盤に覆い被さる。その向かいにはひとりの棋士が巨大な壁として立ちはだかっていた。

羽生善治 ©︎文藝春秋

 2014年10月23日、第62期王座戦は最終第5局を迎えていた。初めてのタイトル獲得を狙う豊島が挑んでいるのは羽生善治であった。王座の他に、名人と棋聖と王位を保持する四冠王。20代で前人未到の七冠制覇を成し遂げた羽生は44歳になっても依然として棋界の王者だった。

 9月4日、大阪で幕を開けた王座戦は羽生が2連勝し、一方的に決着するかと思われたが、その後、豊島が2連勝と逆襲してフルセットにもつれ込んでいた。

「これからの将棋界を担う大器」

 専門誌などでそう評されてきた豊島の反転攻勢によって、この最終第5局もどちらに転ぶか分からないと展望されていた。事実、午前9時から羽生の先手で始まった戦いは接戦となった。両者が5時間の持ち時間を使い果たし、午後10時を過ぎても予断を許さない状況のまま一分将棋が続いていた。秒読みの中、双方が読みを振り絞った手を繰り出す。ただ、一見すると両者が鍔迫り合いをしているように映る戦いの中で、豊島はひとり、羽生との間に埋めがたい差を感じていた。

 おそらく羽生先生には、自分には見えないものが見えている……。

 ずっとその感覚が拭えなかった。