深い森の中へと誘う手

 豊島は将棋界のオールラウンダーと評価されていた。若い頃から突出していた終盤力はもちろん、精緻な序盤戦でペースを握ることもできた。その特徴はこの王座戦でも発揮され、序盤から自分の形に誘導し、持ち時間も羽生より長く残すことができた。だが、将棋において最も難解とされる中盤になると、それが逆転していく。選択肢が無数に枝分かれする中、豊島には立ち往生してしまうような場面が訪れる。逆に羽生は序盤こそ何かを見定めるように時間をかけて指しているが、中盤ではあまり停滞することがなく、相手を深い森の中へと誘うような手を指した。そのうちにいつしか優位の感覚は消えて、豊島にとって難解な局面が続いている。1局目からほとんどがそんな展開だった。羽生は対局全体を見渡すような、棋士の間で大局観と呼ばれる視座を持っていて、自分とはまったく別のところを見ているようだった。

豊島将之 ©︎文藝春秋

 思えば、豊島の将棋人生にはいつも羽生の存在があった。4歳の頃、自宅のテレビ画面に釘付けになった。和服姿の男たちがじっと四角い盤を睨んでいる。画面からは秒読みの声が聞こえていた。物心ついたばかりの幼児には映像が何を意味しているのかは分からなかったが、動きのない世界に漂う緊張感と男たちの佇まいに惹きつけられた。それが将棋との出会いだった。すぐに母からルールを習い、指すようになった。後にあの番組が羽生と同世代の棋士たちを追ったドキュメンタリーだったことを知った。豊島が将棋を覚えて夢中になっていく頃、羽生は史上初となる七冠制覇への階段を駆け上がり、時代の寵児となっていた。

 豊島は9歳で関西奨励会に入った。当時、史上最年少の入会であると報じられ、注目された。憧れは関西を拠点にする谷川浩司だった。その直線的な寄せの鋭さに魅せられて何度も棋譜を並べた。一方、谷川の行く手に立ちはだかる羽生の棋譜は、並べてみても指し手の狙いがすぐには見えず、難解であった。また羽生の指し手は毎回パターンが変わっていた。面と向かったことはないのに、当時から底知れない深淵を感じさせる存在だった。その羽生が今、自分の前に立ちはだかっている……。

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午後10時半、羽生の手が震えはじめた

「50秒、1、2、3、4……」

 第5局の会場となった横浜ロイヤルパークホテルの対局室の空気は一分一秒ごとに重たくなっていた。一分将棋の渦中にいる棋士の視線はほとんど盤面から動くことはなく、限界まで局面を読んで指す。ひたすら、その繰り返しだった。下座に座る豊島の側には横長のテーブルに白い布をかけた立会人席があり、そこで記録係が秒針と同化していた。

「5、6、7、8、9……」

 午後10時半を過ぎての一手、豊島は59秒まで読まれた。棋士が徐々に追い詰められている証だった。羽生に異変が起きたのはその直後だった。自分の手番となり、145手目を指すとき、その手が震えていたのだ。羽生は震える手で9筋の歩を手にすると、それを豊島の陣内へと進めた。数年前から、羽生は勝ち筋が見えた瞬間に手が震えるようになったと言われていた。そのことはファンやメディア、棋士たちの間でも知れ渡っていた。