ノンフィクションライター・鈴木忠平さんの『いまだ成らず 羽生善治の譜』が、第37回「将棋ペンクラブ大賞」の文芸部門大賞を受賞しました。
その受賞を記念して、本作の中で最も大きな反響を呼んだ「第3章 人が生み出すもの」のエピソードを全話紹介します。豊島将之九段を視点人物に、土井春左右さん、斎藤慎太郎八段、そして羽生善治九段の人生が交錯する物語をお楽しみください。(全6回の4回目/つづきを読む)
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異様な熱気が立ち込めていた対局室
2018年7月17日、東京都心部には朝から夏の陽射しが降り注いでいた。焼けたアスファルトが、何が起こってもおかしくないような熱を発していた。この年の関東地方は統計史上最も早く、6月に梅雨明けをした。以降、連日35度に迫る真夏日が続いていた。
豊島が対局室に現れたのは午前8時46分だった。千代田区のオフィス街に建つ都市センターホテルの一室。濃紺の和服姿で一礼した豊島は、将棋盤を挟んで並べられた二つの座布団のうち下座に腰を下ろした。
部屋にはすでに大型テレビカメラ、スチールカメラを担いだ報道陣がひしめき、華奢な豊島の身体を覆うように幾重にも折り重なっていた。座布団の脇に用意されたステンレスの冷水入れは汗をかき、関係者の何人かは扇子を取り出して煽いでいた。空調が効いているはずの部屋に異様な熱気が立ち込めていたのは真夏日の外気のためだけではなかった。第89期棋聖戦第5局、この対局には羽生善治のタイトル通算100期という記録がかかっており、それを報じようというメディアの人いきれが部屋の温度を上げていたのだ。
豊島の入室から3分後、棋聖戦十連覇中の王者羽生が現れた。一斉にカメラのシャッターが切られる。無数のレンズや集音マイクはほとんど全てが上座の羽生に向けられていた。メディアの注目は5度目の挑戦に初タイトルを賭ける挑戦者より、棋界の巨星に注がれていた。ただ、豊島がそれによって心を乱すことはなかった。むしろ視線が羽生に注がれることで、いまだタイトルを獲れていない自分に対する重圧は少なくて済むかも知れないとさえ考えていた。



