ノンフィクションライター・鈴木忠平さんの『いまだ成らず 羽生善治の譜』が、第37回「将棋ペンクラブ大賞」の文芸部門大賞を受賞しました。

 その受賞を記念して、本作の中で最も大きな反響を呼んだ「第3章 人が生み出すもの」のエピソードを全話紹介します。豊島将之九段を視点人物に、土井春左右さん、斎藤慎太郎八段、そして羽生善治九段の人生が交錯する物語をお楽しみください。(全6回の5回目/つづきを読む

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 近鉄バファローズの野茂英雄がメジャーリーグをめざしてアメリカへ渡った1995年、その年のある春の日のことだった。関西将棋会館の職員である土井春左右は2階の道場で業務にあたっていた。55歳までは総務部で働いていたが、定年を迎えてからは嘱託契約で仕事場を道場へと移していた。将棋道場は一般に開放されている。映画の半分ほどの料金で棋士たちと同じ建物で対局ができる。客は絶えなかった。午前10時から午後10時までの二交代制。白いものが混じった頭髪を整え、折目正しいシャツに身を包んで、定刻より前に出勤する。大阪南部の泉佐野市の自宅から将棋会館までは電車を乗り継いで1時間ほどかかったが、遅れたことはなかった。それが土井の日常だった。

年齢以上に幼く見えた5歳の少年

 その日、土井がいつものように受付カウンターに立っていると、見慣れない母子連れがやってきた。母親が周囲をうかがいながら訊ねてきた。

「この子、他の人が将棋を指すのを見たことがないんです。見せてやってもらえないでしょうか?」

 まだ5歳だという少年は細く小さく、年齢以上に幼く見えた。初めての光景に圧倒されているのだろうか、母の背後から注意深く道場内を見渡していた。

子供の頃の豊島将之(本人Xより)

 他の客が指す将棋を見せてくれというのは珍しい相談だったが、土井は了承した。おそらくものの5分か、10分で帰るだろうと思ったからだ。ちょうどそのタイミングで別の仕事があったため、土井はあとをアルバイト職員に任せて一旦道場を離れた。

土井が目にした驚きの光景

 それから1時間ほどが経った。道場に戻ってきた土井はアルバイトの職員に訊ねた。

「どう? あの子はいつ帰った?」

 土井はとうの昔に少年が帰宅したものだと決めつけていた。だが、バイト職員は苦笑いで道場内を振り返った。

「いや、それが……あの子、まだいるんですよ」

 土井が驚いて100席近くが並ぶフロアに視線を移すと、テーブルとテーブルの間の通路に少年の頭がぴょこんと出ているのが見えた。5歳の子供が将棋盤の脇に立って、有段者同士の戦いをじっと見つめていた。土井はその光景に内心、衝撃を受けた。

 道場には平日の午後や週末になれば、大勢の子供たちがやってきた。まだ小学校にも上がらない幼児はたとえ将棋大会であっても5分か10分もすれば飽きてしまう。手合いの合間に走り回ってしまう子も少なくなかった。それを知っていただけに目の前の光景に驚きを隠せなかった。道場の人波に埋もれてしまいそうなほど小さな子供が物も言わず盤面を食い入るように見ている。それも場内で最もレベルの高い有段者同士の対局を見つめている。まるで将棋に吸い寄せられているようだった。