9歳で道場の最高段位に

 おそらく、この子には将棋しか見えていない。それだけあればいいのだ。

 そして、そんな豊島の姿に一瞬、自分を重ねた。土井も将棋に生きてきた。かつて棋士を志し、奨励会に身を置き、その後もずっと将棋会館で働いてきた。酒もタバコもやらない。将棋の側にいられればそれでよかった。そういう意味で初老の男と少年は似ていた。

 豊島は9歳になると、道場で一番上のアマチュア六段まで上がった。そのタイミングで土井は豊島の両親に会った。どうしても伝えたいことがあった。

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「豊島くんが棋士になれるのは間違いありません。奨励会に入るなら1年でも早い方がいいです」

 まだ10歳にも満たない少年が入会した例は聞いたことがなかった。世の常識に照らせば、なぜそんなに急ぐのかと首を傾げられるのかもしれないが、それを承知で土井は言った。

 1年でも早い方がいい──その言葉には土井の将棋人生の中にずっと沈殿していた、微かな後悔と痛みが込められていた。

プロを志した17歳の土井青年

 最初の記憶は陽の当たる縁台に置かれた平べったい盤だった。それを挟んで甚平姿の大人たちが難しい顔をしている。子供心に興味を惹かれ、傍で見ているうちにルールを覚えた。ただ、戦時中だったこともあり、土井少年にとって将棋はまだ見るだけのものだった。やがて大阪の空にも米軍爆撃機B−29の不気味な飛行音が轟くようになると、縁台に響く駒音は消えた。

 土井が盤上の世界にのめり込むようになったのは15歳になってからだった。太平洋戦争が終わり、焦土からの復興が始まった頃だった。ある日、中学校の帰り道に立ち寄った書店で一冊の入門書に出会った。表紙に描かれた盤と座布団と駒台のイラストを目にして、幼少期に眺めていた縁台将棋の記憶がよみがえった。

 土井はすぐに入門書と盤にかじりつくようになった。そんな息子を見た母親が近隣にアマチュアの強豪がいるという噂を聞きつけてきた。泉佐野駅から上りの南海電車に揺られて五つ目、岸和田駅を降りてすぐの喫茶店にその人はいた。扉を開けると、店の奥に将棋盤があった。界隈で知られた将棋指しだという店主は初めて会った土井青年と六枚落ちで指してくれた。まったく歯が立たなかった。唖然としていると、その人は言った。

「六枚落ちには六枚落ちの指し方があるんだよ」

 それは定跡というものだった。当時の土井にしてみれば、まるで魔法だった。覚えれば、格上を相手にしてもすぐに太刀打ちできるようになった。矢倉、角換わり、横歩取り、土井は乾いたスポンジのように、先人たちが生み出した最善手を吸収していった。それからは暇さえあれば電車に乗って岸和田へ向かった。喫茶店の扉を開けるたび、人生を見つけたような気持ちになった。そして17歳で奨励会の門を叩いた。