「なぜ、もっと早くあの扉を開けなかったのだろう」

 当時、天王寺の近くにあった関西本部へ通う日々、各地の天才や神童が集まる世界がそこにはあった。他の者に比べてスタートが遅いことは分かっていた。頂点に立てると思っていたわけでもない。だが、プロ予備軍の中に身を投じると、現実は想像していた以上に厳しいことを思い知らされた。

 3歳下に内藤國雄がいた。最初は香車落ちで指していたが、わずかな間に平手でも敵わなくなり、やがて彼の背中が見えなくなった。成人してしばらくすると、10歳の少年が入会してきた。土井からすれば、文字通り大人と子供だったが、わずか数年でその少年に勝てなくなった。まるで壁など存在しないかのように階段を駆け上がっていく者がいる。その度に思った。プロになれるのは、こういう人たちなんだ……。

 25歳で三段になった。あと一つ昇段すれば棋士になれる。だが、そこから先に進めない。4年、5年と時間だけが過ぎていく。当時の奨励会にはまだ年齢制限がなく、時間に追われることはなかったが、逆にそれが夢と現実の狭間に土井を閉じ込めた。自分はいつまでここで指し続けるのか……。戦いながら心の片隅で考えていた。

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 1968年、土井が31歳の年、奨励会に新たな規定が設けられた。

『31歳の誕生日までに四段に上がれなかった者は強制退会となる』

 なぜ突然に、という怒りは湧いてこなかった。自分はもうこれ以上、階段を上れないだろうということは内心で分かっていた。むしろ規定ができたことで土井は人生に踏ん切りをつけることができた。

 横綱大鵬の連勝記録が45でストップした1969年の春、土井は関西奨励会を退会した。そのまま将棋会館の職員となった。淡い夢に別れを告げる時、微かに胸に去来したのは岸和田の喫茶店の光景だった。

 なぜ、自分はもっと早くあの扉を開けなかったのだろう。なぜ、もっと早く師に出会えなかったのだろう。そして、なぜもっと早く人生を将棋に賭けなかったのだろう。

「1年でも早い方がいい──」

 豊島に向けた土井の言葉は自らの人生に横たわる蹉跌ゆえでもあった。時代に揺さぶられ、決して巻き戻せない時間の価値を知った男の叫びだった。

豊島将之 ©︎時事通信社

 土井が思った通り、豊島は9歳で奨励会試験に合格した。入会の日、それは2人で紡いできた日々の終わりでもあった。もう自分が教えることはない……。分かってはいたが、巣立っていく少年に土井はひとつだけ求めた。

「豊島くん、もしよければ……例会の日にはどんなだったか、連絡をしてくれないだろうか」

 その言葉に豊島は意志を秘めた目で頷いた。

いまだ成らず 羽生善治の譜

鈴木 忠平

文藝春秋

2024年5月27日 発売

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