「他の子とは違うものを持っている」
対局が終わると、少年はようやく母親のところへ戻ってきた。帰り際に聞いてみると少年は4歳で将棋を覚えたのだという。愛知県から大阪に引っ越してきて、最初に十三の将棋道場へ連れていったが、覚えたての初心者が指せるような空気ではなかったため、この将棋会館までやってきたということだった。
興味を持ったようなので、月に1、2回くらいは連れてこようと思います──母親はそう言った。土井はそれを聞いて、思わず首を横に振った。それでは少ないと思ったのだ。
「道場にずっと通ったら、この子は強くなりますよ。この子は将棋に向いています」
自分でも驚くような言葉だった。ほんのわずかな時間見ただけなのに、どんな将棋を指すかも知らないのに、なぜか確信に近い予感があった。この子は強くなる──。59歳の胸が高鳴っていた。
昂りは翌日になっても収まらなかった。土井はいつものように関西将棋会館へ出勤すると、3階の事務所で連盟職員たちに言った。
「昨日、道場にすごい子が来たんだ」
書類やファイルが山と積まれたフロアに土井の陽気な声が弾んだ。「5歳の子が有段者の将棋を1時間も黙って見ていたんだ」
職員たちは自分の仕事に手を動かしながら、土井の話に耳を傾けていた。
「とにかく……他の子とは違うものを持っている。あんな子、見たことがないよ」
少年について話し続ける土井に、職員のひとりが言った。
「そういえば土井さん、何百人と子供たちを見てきたと思いますけど、今までそんな風に言った子っていましたっけ?」
土井自身も不思議だった。関西将棋会館で働き始めて20年以上、道場の担当になってから4年以上が経つが、かつてこんなことは記憶になかった。
またあの子に会えるだろうか──。気付けば、一度会っただけの少年との再会を願っていた。それが土井と豊島将之との出会いだった。
師の日常を変えた出会い
豊島に出会ってから土井の日常は変わった。折目のついたシャツに身を包み、定刻前に関西将棋会館の道場へ出勤するのはこれまで通りだったが、営業が始まると土井は業務の傍ら、あの5歳の少年を待つようになっていた。
豊島は母親の言葉通り、水曜日と土曜日の午後、幼稚園を終えてからやってきた。まだ将棋を覚えたばかりだということもあり、最初は六枚落ちで手合いをつけても勝てなかった。そんな少年に土井は声をかけた。
「六枚落ちには六枚落ちの指し方があるんだよ」
それは定跡と呼ばれるものだった。豊島はじっと土井の目を見て、聞いていた。初めて会った日、有段者の対局を見つめていたあの眼差しだった。



