「5歳で、もう字が読めるの?」土井が少年に尋ねると…

 豊島は一度教えたことはすぐに自分のものにした。普通、幼い子には何度も言って聞かせなければならなかったが、豊島には同じことを二度言う必要がなかった。手合いの合間、他の子供たちは机と机の間を走り回っていたが、豊島は道場の隅にある棚から将棋の教本を取り出して読んでいた。喧騒の中、ひとり自分だけの世界をつくり上げていた。

「5歳で、もう字が読めるの?」

 土井が訊くと、少年は言った。

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「数字はわかります。それと駒にある漢字は読めるようになりました」

 小さく細い声の中に意志を感じた。この子は強くなる。初めて会った時に抱いた予感は日を追うごとに確信になっていった。

 やがて土井は客の少ない水曜日の午後、アルバイト職員にカウンターを任せて豊島と盤を挟むようになった。何かあればすぐ業務に戻れるよう、いつも受付が見える壁側の席に座った。豊島は寡黙だったが、こと将棋に関しては明確に物を言った。

「先生、この詰将棋、詰みません」

 そんな時、土井はそっと背中を押すだけにした。

「そうかなあ。例えば、最初にこう指してみたらどうだろう?」

 豊島は小さな鍵を与えれば、すぐに扉を開けることができた。瞬く間に定跡を覚え、棋力を上げていった。とりわけ終盤での閃きは天賦のものを感じさせた。いつしか週に一度の少年との午後は土井にとっても待ち遠しいものになっていた。

いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)

昇級を重ねていく少年

 だが、そんな日々は1年ほどしか続かなかった。まだ小学校に上がるか上がらないかの小さな子が次々に昇級していく姿は道場内で人目を引いた。豊島が注目されればされるほど、道場担当の土井としては彼に近付き難くなった。なんで土井さんはあの子にばかり……。そうした空気が漂うのを危惧したのだ。道場の運営が仕事である以上、もう指導を続けるわけにはいかなかった。

 天井に蛍光灯が並んだ事務室、道場での勤務を終えた土井は思わずため息をついた。

「あの子はもっと強くなれるのに、もう教えてやれないのか……」

 書類とファイルが積まれた机の前で誰に言うともなしに放った言葉に、側の連盟職員が顔を上げた。

「土井先生、それなら別室で教えてあげればいいじゃないですか」

 土井は月に一度、空いている時間に会館内の和室を借りて、同世代の将棋仲間たちと対局していた。同好会のような集まりだった。確かにそこでなら、自然に豊島と盤を挟むことができる。

「一度、来てみないかい?」

 声をかけると、豊島は頷いた。母親に連れられて本当に会館の4階まで上がってきた。50を超えた将棋指したちの中に、小さな少年がひとり混じっている。その奇妙な光景を見つめながら、土井は思った。