定跡外の手を指すAI

 電王戦への出場が決まった棋士には対局に採用される機器が貸し出されることになっていた。豊島は将棋連盟から届いた機器を自宅の和室に設置した。床の間に向かってテーブルと座椅子を配して研究のための空間をつくった。デスクトップの電源を入れると眼前に人工知能という名の指し手が現れた。他に誰もいない空間でひとり、物言わぬ相手と向き合った。

 まず分かったのは将棋ソフトが万能の神ではないということだった。特に序盤は容易に自分の得意な戦型に誘導することができた。終盤戦においても、自分の方が知識を持っていると感じることもあった。だが一方で、中盤の混沌とした局面での判断の正確さ、速さには驚かされた。優位に立てる手を見逃すことはまずなかった。AIソフトには、自分に足りないと感じていた中盤戦の深い森を進んでいく力があった。そして次第に分かってきたのは人が指す将棋とAIのそれとの決定的な違いであった。

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 ソフトは時折、豊島が絶対に選ばない手を指してきた。今、その局面の最善手のみを割り出そうとする人工知能は前後関係や美学に縛られることなく手を選んでくる。ところが人間はそうはいかない。棋士たちは幼い頃から先人がつくり上げてきた定跡をまず頭に叩き込む。その上に出会いや経験が積み重なり、その棋士の棋風が生まれる。局面が進めば、ほぼ無限に近い選択肢が生まれ、それを全て読むことが不可能である以上、指し手はまず定跡から外れる手、筋が悪いとされる手を除外してから読み筋を絞り込んでいく。そして最終的な決断にはたとえわずかでも、相手に抱く印象や、自分がどんな棋士でありたいかという流儀や美学が影響することになる。

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 だから、これまで自分では絶対に指さなかった定跡外の手をAIが指せば否定したくなる。咎めてやりたくなる。だが、実際に分析してみると筋が悪いと思い込んできた手でも意外に局面を有利にすることがあった。新たな発見だった。

 ある局面を入力し、自分の読みを立て、それをAIがどう指すか見てみる。もし自分と異なる手順を示せば、検討してみる。最善手か、悪手か、必ずしも明確な答えが出ないことも多かったが、豊島はそうやって自分の将棋を見つめ直す作業を繰り返した。そのうちにAIソフトへの見方が変わっていった。