「ああ、豊島さんの努力が報われるんだ…」
斎藤慎太郎はインターネット中継が映し出す対局場を見つめていた。タイトルをかけて羽生と戦う豊島の姿があった。駒の動きを見れば、かつて自分と棋士室で研究していた頃とは豊島のスタイルが変わっていることは明らかだった。そして終盤戦、豊島の勝ち筋が見えたとき、斎藤の心は揺れ動いた。
ああ、豊島さんの努力が報われるんだ……。
最も身近な憧れの存在が棋界の王者からタイトルを奪う。それは豊島の背中を追ってきた斎藤にとっても、この道を進めばいいのだという一つの証明だった。ただ一方で、どうしても豊島に勝ってほしいとは考えていない自分に気づいた。この間、斎藤もまた変わったのだ。
斎藤は2015年に第4回の電王戦に出場した。AIソフトの持つ可能性に触れた。それからトップ棋士としのぎを削るようになり、2017年の棋聖戦では挑戦者決定トーナメントを勝ち抜いて初めてタイトル戦への切符を手にした。相手は羽生だった。
豊島と同じように斎藤もまた、将棋を始めるきっかけとなった場面に羽生の存在があった。まだ小学校に上がる前、通っていた学習塾の本棚に将棋の入門書があった。その表紙が羽生の写真だった。このゲームは何だろう? この人は誰だろう? ゲーム勝負が好きだった少年はそれを機に将棋の世界へと入っていった。
自らの原点とも言える羽生に挑んだタイトル戦、斎藤は1勝3敗で散った。勝った1局ですら、実感は負けだった。その過程で思い知った。今のままでは勝てない。憧れていては越えられない─。
羽生からタイトルを奪おうとしている豊島の姿を見て、居ても立っても居られない気持ちになったのはそのためだった。拍手を贈るよりも棋士としてやらなければならないことがあった。豊島がそうしたように、自分もまた憧れの存在を越えていくのだ。
終局後、勝者となった豊島の姿に向ける斎藤の眼差しはもう、昨日までのものではなくなっていた。
恩師への電話報告
棋聖戦第5局から一夜明けた7月18日の朝、土井はいつもより少し早く目が覚めた。泉佐野市の自宅で、一本の電話を待っていた。
電話が鳴ったのは東の空高くに陽が昇った頃だった。確信があった。豊島からだ─。
9歳で奨励会に入った後、豊島は土井との約束を守った。例会があった日にはその夜か、あるいは翌朝に決まって電話をかけてきた。
「今日は2勝しました」
「あと1勝すれば昇級できます」
棋士になり、関西棋界のホープと言われるようになっても節目の対局日には決まって連絡がきた。挑めども挑めどもタイトルに手が届かない時期も、土井はいつか弾む声で電話がくると信じて待った。5歳の頃から彼の中に宿る光を信じてきたからだ。
─電話を取ると、受話口の向こうから静かで芯のある声がした。
「先生……タイトルを取りました。ありがとうございました」
声を聞いた瞬間、込み上げた。電話を待つ間、どんな言葉をかけようかとあれこれ思いを巡らせていたが、いざその瞬間になるとほとんど何も出てこなかった。
「おめでとう。よかったね……」
土井は感情でいっぱいになった胸の内から精一杯の言葉を絞り出した。



