ひとつでも間違えれば、たちまち逆転されてしまう…
盤の向こうでは羽生が鋭く局面を睨んでいた。豊島は自玉に目をやった。守りは薄い。何が起こるか分からない。ひとつでも寄せを誤れば、たちまち形勢を逆転されてしまうだろう。最後の正念場で、豊島は何度も何度も勝ち筋を確認した。
一歩、一歩、薄氷を踏むような緊張の時間がどれくらい続いただろうか。105手目、羽生が覚悟を決めたような手を指した。第三者から見れば、まだ決着とは映らなくとも、対局する棋士にはその瞬間が分かることがある。その一手を見て豊島は席を立った。対局室を出た。終局を目前に、心を落ち着けるような間であった。豊島のいなくなった部屋では羽生が側に置かれたペットボトルや水入れの位置をただし、身の回りを整え始めていた。そして一分後、対局室に戻ってきた豊島はもう耳栓をしていなかった。
108手目、豊島が敵陣に香を打ったところで王者が頭を下げた。
「負けました」
豊島は静かに頭を下げると、ひとつ息をついて天井を見上げた。張り詰めていた対局室の空気が解放されていく。初めてタイトルを手にした瞬間だった。あの王座戦で羽生に敗れてから4年、タイトル初挑戦から8年、初めて将棋会館の道場を訪れた日から20年以上が経っていた。
脳裏をよぎった師の言葉
カメラマンたちのレンズは相変わらず、ほとんどが羽生に向けられていたが、気にはならなかった。豊島はしばらく実感の伴わない、しびれるような感触に身を委ねていた。
「角を手放して打開していったんですが……あまり働かなかった。攻めが無理だったのかもしれません」
羽生は冒険にも見えた角打ちをそう振り返った。そしてタイトル100期を逃したことについて問われると、少し間を置いて言った。
「次の舞台の時に……目指してやっていけたらいいなと思っています」
デビューから四半世紀以上に渡り、盤上の探究と結果を同時に求め続けるその姿は、敗れてなお他の追随を許さない光を放っていた。
感想戦と新棋聖誕生の記者会見を終えても、豊島にはまだ何かを手にした実感がなかった。それでいて部屋に戻っても寝つけそうになかった。あらゆることに確たる感触のない闇の中で、夜が明けたらやろうと決めていたことがあった。あの日、母と初めて見に行った道場であの人に会わなければ、今、タイトル戦で将棋を指してはいなかっただろう。いつも敵玉めがけて一直線だった少年時代の自分に、あの人は春の陽光のような眼差しで言った。
「戦いが始まる前にひと呼吸置いて、考えてごらん──」
その出会いはAIソフトには決して生み出せない奇跡だった。棋士には自分にしか指せない手がある。その裏に自分だけのストーリーがある。それを育んでくれたあの人に、豊島はようやく掴んだ勲章を報告しようと決めていた。



