つらい闘病生活を支えた“本当に嬉しかったこと”
――ご家族はどんなご様子でしたか。
シンディ あの時は体も心も痛かった。でも、そんな中、本当に嬉しい出来事があったんです。両親が毎日お見舞いに来てくれたんですよ。
これまでどんなにお願いしても、学校行事や参観日に来てくれなかった両親が、仕事終わりの面会時間ギリギリにお土産や雑誌を手に走って毎日会いにきてくれたんです。そこで、やっと私は親に愛されていたんだって気づくことができました。
手術前夜、口下手な父親がくれた一通のメールの存在も大きかったですね。「茉萌は桑原家の太陽だから、太陽がいなければ困ります。頑張って下さい」。この病気は私にとってすごく苦しい経験でしたが、これをきっかけに親の愛に気づけたことはすごく良かったと思います。
――お姉さんもお見舞いに来てくれましたか?
シンディ 来てくれました。私は姉の焼くクッキーが好きだったので、真っ赤なハートのクッキーを焼いてきてくれたんですよ。
手術後で、まだ食べ物を食べられなかったんですけど、必死で飲み込みました。その時、「大丈夫だよ、心配しないで」って姉に言われて、「何の話?」って聞いたら、「茉萌が死んでも、私がきれいにして送ってあげるから大丈夫」って。姉は当時おくりびと(納棺師)の職に就いていたので。うちの家族は全員不器用なので、姉なりのブラックジョークだったのかも(笑)。
初めて目にした“母の涙”
――良性腫瘍だったんですよね?
シンディ 手術で採取した細胞を検査に出して、その結果が3日~1週間で出るんです。良性か、悪性か。その検査結果をビクビクしながら怖い思いをして待ったことをよく覚えています。もし悪性だったら、また違う処置が必要になってくるんですね。
結果は良性でした。私自身はその取り除いた腫瘍を見ていないんですよ。親は見ていて、「瓶の中にいろんなものがパンパンに詰まっていたよ」って。それは研究のために持っていかれました。
この闘病中、どうして両親が毎日会いに来てくれたのか、病院にどんな話をされたのか、自分としては怖くて、両親にちゃんと聞くことができていないんですよね。いつか聞く機会があればと思います。
――ご両親も心配されたでしょうね。
シンディ 母が泣くのを初めて見ました。でも、私は親の前では泣けなかったです。
――誰の前でなら泣けますか?
シンディ 男性。当時、付き合っていた年上の彼氏がいたんです。親が泣いている、私も泣きたいけど、ここでは泣けない。彼から病院に着いたよって連絡が来たら、外に走り出ていって、彼の胸で泣いたのは覚えています。
――親に心配かけられませんか。
シンディ 姉と妹のことで母が学校に呼び出されることがよくあったんです。「お母さん、トイレで泣いてたな」と感づくことが何回かあったし、3人で心配かけたらかわいそうじゃないですか。せめて私はいい子でいなければと強く思っていました。
その分、男の人に頼りがちでしたね。親に甘えられない寂しさと同性に好かれない寂しさから。彼氏の前でなら泣けるし、弱みも見せられる。親の前では泣けなかったですね。優等生でいたかったんだと思います。
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