たとえば、あなたが営業マンとして働いているとします。
業務時間のほとんどは外出していて、さまざまなクライアントのもとに通うのがあなたの仕事です。
ある暑い夏の日、昼食を食べに定食屋に入ってメニュー表を見ていると、定食のほかに生ビールの文字が目に入りました。
今は勤務中で、ビールを飲むことは常識的にNGです。
ところが、あなたはビールを注文し、飲み干してしまいました。
普通ならその行動を、「自由」と表現するでしょう。
しかし、カントであれば、そんな行為を「自由」であると見なすどころか、自由を失った「奴隷」的行為だと主張するでしょう。
一見、僕らの直感とは違う判断を下すカントの主張ですが、次のように考えると納得できます。
カントは、昼からビールを飲む行為を「奴隷」的行為だと蔑みます。
なぜでしょうか。
それは、ビールを飲むことが自分の欲望の「奴隷」になっているからです。
自由に過ごしているのに、なぜ満足感がないのか
同じように、「やるべきことがあるのに眠たくなったら寝る」「宿題があるのにゲームをしたくなったから遊ぶ」というのも、「自分の欲望に振り回されている」とカントは考えます。
反対に、「本当はビールを飲みたいのだけれど、勤務中にアルコールを摂取することは不謹慎だ」と自分を戒め、ビールを飲もうとする欲求をぐっと抑える。
これこそが、自分の欲望から「自由」になれたということ、つまり「自由とは自律である」というわけです。
つまり、「自分が決めたルールにきちんと従えることが真の自由である」とカントは説きました。
たとえば、体重が増えはじめたことが気になって、ダイエットを決意したとします。
ところが、ある日、友人からおいしそうなケーキをもらってしまいました。
一般的に考えれば、そのケーキを貪ることが「自由」な行為です。
しかし、カントは、そのケーキを食べてしまったら、自分で決めた「ダイエットをする」というルールを守れず、欲望に振り回された「奴隷」だとあなたを非難することでしょう。