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神奈川が横浜よりも栄えていた頃
旧東海道はちょうど現在の第一京浜から宮前商店街を経て、神奈川駅前を横切って西へと続く。その昔、現在の横浜駅前一帯は海だった。
鉄道は半ば強引に海の上を横切って通ったが、旧東海道はそうもいかず、海を避けるように西へ迂回していたのだ。
神奈川宿は滝の川を渡る滝の橋付近にふたつの本陣が置かれ、さらに隣接する神奈川湊によって陸海連絡の要衝として発展した。
さらに幕末には歴史の表舞台に登場する。日米修好通商条約によって、神奈川が開港地のひとつに指定されたのだ。
それを受けて列強は神奈川に領事館を置いている。といっても新たに領事館を建てたわけではなく、近隣のお寺を間借りした。
たとえば、青木橋西詰の本覚寺はアメリカ領事館。境内からは神奈川の町が見下ろせる、まさしく一等地であった。そんな場所を確保するあたり、アメリカはいつだってアメリカなのだ。
ただ、古くからの宿場町で日本人の往来が盛んな神奈川に外国人が集まると、不測の事態が生じないとも限らない。そこで、実際の開港地に選ばれたのは現在の横浜駅一帯、海を挟んだ南側の寒村だった。
それが「横浜村」である。


