綾子さんは長袖で、俊郎さんは腕まくりをしている。背後には柿かリンゴのような実が写っているので、昭和18年の秋ごろに撮られたものだろう。

平島俊郎さんと綾子さん

妻も遺書を遺して自決していた

 このころはまだ戦局も絶望的ではなく、若いふたりは前途洋々の未来に胸を膨らませているようにも見える。子どもはいなかったということなので、綾子さんは俊郎さんの死後実家に帰り、新たな人生を踏み出したのだろう。そう考え、「綾子さんはその後、どうされたのですか」と尋ねた私に、節郎さんは一瞬困惑したような表情を見せた。

 そして、「死んださ……。自決」と言った。想像していなかった答えに絶句していると、念を押すように「自決たい」と続けた。ノートの後半、俊郎さんの遺書のあとに、「綾子姉さんの遺書」と書かれているページがあった。綾子さんが残した遺書を、家族が書き写したものだった。綾子さんは昭和20年2月の夜、平島家の片隅でみずから命を絶った。

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世の中はすべて空なり 君なくてただいたづらに生きながらえんか

日本の国に生れてありがたきうれし つわものの妻になりたり

 なぜ綾子さんは自決を選んだのか、今となっては知ることはできない。

平島俊郎さんのノート

「つわものの妻になりたり」という言葉が意味すること

 遺書にあるように、いたづらに生きていても仕方ない、という喪失感もあったのだろうが、同時に、「つわものの妻になりたり」という一節もあり、他にも理由があるのではと思われた。俊郎さんの手記を読み込んでいくと、前半部分に、「万が一の場合、おまへは自決してくれるか」と俊郎さんが綾子さんに尋ね、「おまへは力強くうなづいた」というくだりがある。

 このやり取りが行われたのは、俊郎さんが戦場に出るはるか前のことのようだ。戦前から戦中にかけて「武人の鑑」とされる人びとの軍国美談が日本では盛んに喧伝されており、そうしたなかには、日露戦争の英雄で、明治天皇が崩御した際に夫婦で殉死した乃木希典とその妻なども含まれていた。そうした世相の影響を、若いふたりも受けていたのだろうか。一方、俊郎さんの最後の遺書からは、綾子さんに元気で生きてほしいという強い思いが感じられる。

 絶望的な戦場を経験し、捨石になる運命に立たされた時、生きていることのありがたさや尊さ、それまで教わっていた「美談」の陳腐さを、俊郎さんが感じていたとしても不思議ではない。多くの若者を死に追いやったこうした「殉国美談」を教えていたのが、他ならぬ教師たちだった。

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