日本が戦争に敗れた翌年から、全国を巡りながら遺族一人ひとりに丁寧な聞き取りを行い、膨大な数の遺品を預かった人物がいた。近江一郎氏である。彼はどのように遺品を受け取り、遺族たちはその姿をどう受け止めていたのか。

 ここでは、『一億特攻への道 特攻隊員4000人 生と死の記録』(文藝春秋)の一部を抜粋。近江氏の足跡を辿るとともに、戦死者遺族らの思いを紹介する。(全2回の1回目/続きを読む)

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特攻隊員の遺族宅を突然訪ねてきた男

 近江一郎という人物の存在は、ずいぶん前から知ってはいたが、具体的な話として聞いたのは2016年2月、鳥取県米子市出身の特攻隊員・原田嘉太男(はらだ・かたお)さんの遺族を訪ねた時だった。

 原田さんは、太平洋戦争の開戦時、真珠湾攻撃に参加した900名近い精鋭部隊のひとりで、数々の激戦を生き抜いた歴戦の搭乗員だった。アメリカ軍が硫黄島に上陸を始めた直後の昭和20年2月21日、32機からなる「第二御楯隊」の隊長機として千葉県の香取基地(現・旭市、匝瑳市)から八丈島を経て硫黄島沖のアメリカ艦隊に体当たり攻撃に向かい、戦死した。原田さんには達子さんという新婚の妻がいて、その妻に宛てた遺書が原田家には残っていると知り、伺ったのだった。戦後、兄に代わって原田家を継ぎ、田畑を守ってきた弟の昭さんに、嘉太男さんのこと、残された新婚の妻のこと、「嘉太男命」だったという母のことなどを聞いていた時、昭さんが突然、数十年来の疑問を絞り出すように、質問してきた。

 近江一郎、という人のことはご存じですか? 実は戦後すぐ、わが家を訪ねてきているんですよ。私が中学生にあがる頃ですから、確か戦争が終わって3、4年の頃だったと思いますね。兄の弔いをさせてほしいって。親父が、それはそれは喜びましてね。戦争が終わって、価値観が180度ひっくり返ったでしょう。特攻隊員の遺族だなんて言っても、誰も見向きもしないような頃ですよ。犬死にだった、無駄死にだったなんて言う人もいて、遺族は肩身の狭い思いをしていたんです。そこに訪ねてきたもんですから親父は喜んで、物のない時代で貧しかったですが、ごはんを食べさせて、家に泊まってもらって、もてなして歓待したんです。


 ただひとつだけ妙だったのが、何者なのかはっきりと言わないわけですよ。国民服にゲートルに杖という格好で、海軍の特攻隊員の遺族の元を回って慰霊しているんだと言うだけで。だいぶ年配に見えたんで、親父は「おたくは、海軍の大将か何かですか?」と聞くと、穏やかに「いやいや、違います」と答える、「では中将ですか?」と聞くと「まあ、そんなところにしておきましょう」という感じ。親父はそれから「近江中将」と呼んでいました。