遺書をめぐる緊張感のあるやりとり

 昭さんも、老人の訪問を嬉しく思ったひとりだった。長男である嘉太男さんに可愛がられ、その兄を心から慕い、戦死後の喪失感から立ち直り切れていなかった昭さんは、ずっと父の横に座って話を聞いていたという。原田家での滞在は、終始和やかな様子だったようだ。だが帰る間際になって、父の八蔵さんと近江一郎との間で、少しだけ緊張感のあるやり取りがあったという。

 特攻隊員のことを後世に伝えていくため、と言うので、家にあった写真を渡したんです。


 そうしたら、「遺書も預かれますか」という。さすがに親父は、それには首を縦には振りませんでしたね。しばらく考えて、「これはお渡しすることはできません」と言いました。やり取りはそれだけです。近江さんも「分かりました」と言って、終わりました。

 記録上、近江一郎が海軍の軍人だったことは一度もなく、中将でも何でもない。自分の素性を明らかにしていないということは、そこになにかしらの後ろ暗さがあった可能性は高い。

遺族宅に保管されていた写真に近江の姿が…

 次に近江一郎という存在に触れたのは、それから5年後の2021年、千葉県の九十九里を訪ねた時のことだった。同じく真珠湾攻撃に参加した搭乗員、布留川泉(ふるかわ・いずみ)さんの遺族宅で昔のアルバムを見ていた時、泉さんの墓の前で、泉さんの遺児である長女と写る男性の姿があった。

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 手書きの注には「近江一郎氏訪問記念 二十五年春」。とある。もう一枚、布留川家の前で撮られた写真には、帰宅の際なのか旅装に身を固めた近江氏の姿が見える。「国民服にゲートルに杖」という原田昭さんの証言とぴたりと一致する姿だった。だが、その時近江氏の応対をした泉さんの弟は、私の取材時には亡くなっており、布留川家に訪問時の詳しい話は残されていなかった。

布留川家の前に立つ近江一郎

 アルバムには、訪問後に近江一郎から届いたとみられる、昭和25年4月15日付のはがきも、大切そうに貼り付けられていた。

旅中、ハガキにて欠礼仕り候。

其の後共、皆様御機嫌美はしく慶賀比の事と奉存候。

三月十九日附貴状当地にて拝受、写真二枚有りがたく受取り申候間

御降慮下度、厚く御礼申し上候。

小生、相変不壮健にて行脚、千葉県を了りて目下埼玉県、近く群馬県に入る予定に御座候。

御母上様に何卒宜しく御伝へ下度、御長命の程遥かに御祈り申上候。

右御礼旁々、如斯御座候(ママ)