「隊員記録」をめくると写真やハガキが…
原田家は、本籍地と現住所が同じなので、現住所は空欄になっている。続柄も空欄になっているがおそらく書き忘れで、八蔵さんは父にあたるため、通常はここに「父」と書かれている。遺族は、祖母、父母、妹3人、弟2人。昭さんの名前も確かに書いてある。ちなみにここまでは、防衛研究所に納められていた海軍の名簿とまったく同じ内容だ。違うのはその先、名簿では余白だった部分だ。そこには、近江の訪問日、面会した遺族の内訳、戦死年月日に加え、遺族から聞き取った情報が書かれており、それらの内容に間違いがないことを確認する遺族の認印が押されている。原田家への訪問日は、昭和23年9月19日、面会人は、父・母・弟・妹となっている。昭さんの記憶と完全に符合する内容だ。
この「隊員記録」は、端だけが台紙にノリ付けされて、めくれるようになっている。その下から現れる台紙に、遺族から寄贈された遺品が貼られている。原田家の場合、嘉太男さんの飛行兵曹長時代の第一種軍装の写真、縁側らしき場所で撮られた兄妹と思われる写真、そして文面の側が見えるように貼られたはがきが1枚。このはがきも上端だけがノリ付けされており、めくれば差出人の側も見えるようになっている。嘉太男さんから父に宛てたもので、消印の日付は、特攻が始まる1年ほど前の昭和18年11月1日、差出人住所は「岩国海軍航空隊 蓑輪部隊」とあり、軍の検閲印が押されている。このころ嘉太男さんは航空母艦を下り、岩国航空隊で教員をしていたので、その時に出したものだろう。はがきには次のように書かれていた。
前略
今度表記の通り転任と相成りました。大航空決戦の秋、吾々の責務は以前にも増して重大となりました。私も早く決戦場にて良き死場所を得る為訓練致して居ります。御両親様も銃後の一員として増々元気に御奉(公)致して下さい。
母上様には百姓が一段と忙しいのでお困りの事と存じます。冬になったら一ヶ月ゆっくり病気を治す様お願いします。
戦況の厳しさをそれとなく伝える言葉
「良き死場所を得る為」とあるのは、嘉太男さんたち真珠湾攻撃隊員たちを待ち受けていた過酷な運命によるところも大きいだろう。真珠湾攻撃には、6隻の空母に900名近い搭乗員が乗り込んでいたが、そのうちの半数近い400名あまりが最初の1年間で早くも戦死している。真珠湾攻撃には、「戦闘機(ひとり乗り)」「艦上爆撃機(2人乗り)」「艦上攻撃機(3人乗り)」という3種類の航空機が使用されており、嘉太男さんが所属していた空母「赤城」の艦上爆撃隊では、真珠湾上空に到達した36人中20人が開戦後1年以内に戦死していて、生きて終戦を迎えられたのは5人だけだ。そうした戦況の厳しさを、それとなく家族に知らせるための言葉だったのかもしれない。




