戦死前日に妻に遺した遺書には…
俊郎さんには、綾子さんという新婚の妻がいた。綾子さんは、俊郎さんの兵学校同期の親友でのちに南極探検隊の第一次越冬隊員となる大塚正雄さんの妹だった。俊郎さんが生前に綾子さんを思い「淋しさをまぎらわすため」書き残した手記によれば、ふたりが出会ったのは昭和18年春、霞ケ浦航空隊で訓練中の兄に面会するため綾子さんが東京から訪れた時だったようだ。
同じ年の7月に大塚さんの板橋の実家に遊びに行って再会して距離を縮め、翌19年8月に結婚している。一週間ほど八女の自宅で一緒に過ごしたのち、俊郎さんは鹿児島県の出水航空隊に戻り、綾子さんは平島家に残って長男の嫁として家の切り盛りを手伝っていた。
俊郎さんが書き残していた手記は、途中で大きく破られている。そして、マス目に几帳面に書き込まれていたそれまでの文章とは打って変わって、書きなぐったような大きく力強い文字で、こう綴られていた。フィリピンで戦死する前日に書かれたと思われる。
遺書 綾子へ
いよいよ明日は最后だと思はれる。誰がこの遺書を読まうとかまはない
今となって改めて言ふ事もない。一個の捨石が大日本帝国の礎となる
その捨石が、俺と、俺の命令で死んで行く部下たちなのだ
捨石と言ふのは止さう。柱と呼ぼう
日本が永遠に幸福となるために。日本が勝つために
子供がなかったのは残念だったが、仕方がない
お前のくれたマフラーを首に巻き、お前の写真を胸にひめて俺は行く
あの世でお前を待ってゐる。もしあの世でゐなかったら七生報國の念に燃えて
再び日本のどこかに生れ出て来てゐると思ひなさい
元気でやれよ。
お前の手紙は遂にとどかなかった。が、どんな事が書いてあるのかよくわかる
手記の最初のページには、ツーショットの写真が貼られていた。


