みずからを責めつづけた元教師「我々の教育の誤りで…」
今も八女市に暮らす平島さんの息子節郎さんに出会ったのは、「大君の楯」の関係者を探し歩いていた時、人づてに紹介されてのことだった。教えられた住所を訪ねてみると、戦前から平島家が暮らしていたという平屋の縁側で節郎さんが待ってくれていた。
節郎さんは、大勝さんが達筆な字で残した、「仇船を てこぎてちりし 神鷲の 霊前にぬかづき 勲しのびつ」という一首を見つめ、「大君の楯」をめくりながら、父の思い出を話してくれた。
親父はね、厳しい教員だったらしいですよ。あんたの親父はえすかったばいって。怖かったって、厳しかったって。親父はね、32歳で校長になっとるんですよ。親父が死んだときも、弔辞を読んでくれた人が、「謹厳率直、率先的陣頭主義だった」って、「児童に与えた感化力大なるものやった」と言うてました。この言葉を書いたのも、おそらく真面目一本じゃったと思うよ。
でもね、戦後は先生を辞めました。何もかも大政翼賛に組み込まれて、太平洋戦争に加担したでしょ。そしてそのなかで自分たちは生徒ば送り出しとるでしょ。それに対する反省でしょうね。「我々の教育の誤りで、大変な数の子どもを、たくさんの子どもを殺した」って言いよったですけん。まあ戦後また先生をしようとか何とか、そんな思いはなかったでしょうね。それは反省の方が強かったですよ。
大勝さんが戦後みずからを責め続けたのには、頼りにしていた長男を戦争で失ったことも大きく影響しているようだ。大勝さんには13人の子どもがおり、長男の俊郎さんは、昭和3(1928)年生まれの三男節郎さんより8歳年上だった。
幼いころから優秀だったという俊郎さんは、本当は旧制五高(現・熊本大学)を志望していたのだという。だが、子だくさんの平島家には金銭的な余裕がなく、学費がかからず国の役にも立つ、と大勝さんが兵学校を勧め、70期生として入校した。兵学校を卒業した俊郎さんは、爆撃機の操縦員となり、昭和19年11月12日、フィリピンで戦死した。俊郎さんが遺したアルバムには、飛行学生時代に仲の良かった同期生たちの写真が数多く収められており、昭和19年10月25日に特攻の先駆けとなった「敷島隊」の関行男大尉や、昭和20年8月15日に宇垣纒の乗る特攻機の操縦員を務めた中津留達雄大尉も含まれていた。森史朗『敷島隊の五人』にも、俊郎さんは関大尉と親しく付き合っていた友人のひとりだったと記されている。俊郎さんは特攻ではなく通常攻撃での戦死ではあったが、いずれにしても、兵学校のなかでも特に過酷な戦場に立たされた期のひとつだった。




