男性は“顔のほとんどを失った”事態からどうなったのか
本書には術後半年の患者の写真も掲載されているのだが、中永の言葉通り、搬送直後の“顔のほとんどを失った”としかいいようのない状況から、奇跡といってもよいほどの回復ぶりだ。鼻も綺麗についており、違和感もほとんどない。
「多くのクマ外傷治療を経験する中でわかってきたことのひとつが、『顔の傷はあまり感染を起こさない』。つまり化膿しにくいんですね。顔面には多くの動脈・静脈・毛細血管などが密に分布しており、血流が豊富なため、細菌なども排除されやすいのでしょう。それに対して四肢の傷の場合は感染が起こりやすく、残念ながら再建が難しい場合も少なくありません。ちなみに海外のクマは狂犬病に罹っていることがあるのですが、日本のクマは狂犬病ウイルスを持っていません」
目だけは「眼球破裂になってしまうと、失明するしかない」
一方で、治療の予後がいい顔であっても、「ここだけは、やられてしまうとどうしようもない」という器官がある。眼球である。
「目だけは治せません。クマにはたかれて目が飛び出したり、眼球破裂になってしまうと、失明するしかない。我々が診たクマ外傷の20の症例では眼球損傷と眼筋の障害により、3名が失明してしまいました」
クマ外傷の場合、いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)などの「心の傷」も大きな問題となる。
「うちで入院されたクマ外傷の患者さんのうち、だいたい40%くらいが不眠などの症状を訴えていました。襲われたときの状況がフラッシュバックするという方や、畑で襲われた70代の女性が、その後『怖くて畑に行けなくなった』というケースもありました」
「命に別状なし」の本当の意味
本書で報告されている症例は、テレビのニュース報道であれば、「クマに襲われましたが、命に別状はありませんでした」などと報じられることになる。ところが「命に別状はなし」の実態は、かくも凄惨なものであり、被害者にとってはその後の人生に関わるほどの深刻なダメージが残る。
このことは、これまであまり知られてこなかった。中永が力をこめる。
「それこそ私たちがこの本で伝えたかったことです。“命に別状はない”というのは、決して軽傷ではありません。それどころか、一生を左右するほどの傷を負うこともあるのだということをもっと知ってほしい。報道でも“命に別状はありませんでしたが、被害者は重傷を負いました”という一言を付け加えるだけでも印象が変わると思います」
クマを正しく恐れることが、結果的にクマによる人身事故を防ぐことに繋がるのである。