「阪神の黄金時代が来る」と思った矢先に……
その年のキャンプは、小林がひとりで話題をさらっていた。生え抜きスターの掛布雅之もやっかんだと思う。私などは、生意気にもファンや報道陣が来ると「こっち来るな」と思っていたので、なんともなかったが……。
私は、小津球団社長からも「小林の面倒を見てやってくれ」と頼まれていたし、小林とはジャンボ尾崎(将司)さんのパーティーで一緒だった縁もあったので、いろいろと気に掛けた。球団から金を出してもらって歓迎会も催した。シーズン中も一緒に飲んだり食ったりしながら、外様は外様同士、他の人にはわからない心情を吐露し合ったりした。
そのシーズン、小林は22勝で最多勝のタイトルを獲得する大活躍だった。特に古巣巨人からは8勝して球団記録を更新した。ちなみにそれまでの年間の記録は、私と江夏豊の7勝だった。
ブレイザーが指導した阪神は、どんどん強くなっていった。選手とコーチングスタッフとの関係も良かった。田淵さんとのトレードで加入した竹之内雅史さん、真弓明信、若菜嘉晴もレギュラーとして活躍した。クマさん時代の停滞した空気はすでになく、改革はいいほうへ進んでいる。最終順位は4位ながら、貯金1で首位とは8ゲーム差だった。
ああ、これで来年、または再来年には優勝も目指せる。阪神の黄金時代が来るかもしれない――私はそう思っていた。しかし、残念ながらそうはならなかった。私が忠誠を誓ったブレイザーは、翌1980年シーズンの5月半ばに辞任し、帰国してしまったのだ。
ゴールデンルーキーの扱いを巡り、突如ブレイザーが退任
原因はルーキー岡田彰布の入団とその処遇だった。東京六大学・早稲田で大活躍し、ドラフト会議では、重複指名を相思相愛の阪神が引き当てた。関西で絶大な人気を誇る阪神だが、スーパースターの田淵さん、掛布は関東人。コテコテ大阪人の岡田は、ファン待望の存在だった。岡田は三塁手だったが阪神には掛布がいる。どこで使うのかが報道でも話題になっていた。
岡田自身はどこでも守ると言っていた。ブレイザーは、キャンプの時点では、外野や一塁の練習をさせた。また、MLBの常識に照らして、ゴールデンルーキーをあわてて試合で使うようなことはしないと明言したが、これがファンに不評だった。
「本当のスーパースターに育てたい」とブレイザーは言った。真意を聞いたことがあった。サードに掛布がいる限り、コンバートする必要があり、しっかり守備練習をさせてから、競争に加えようという考えだった。打撃についてもファームで自信をつけさせてからでも遅くないと。
しかし、とにかく「岡田を使え」という声が高まり、悪意を持って危害を加えようとする輩まで現れた。実際は使わないどころか、掛布の故障もあり、サードスタメンで使う試合が多かったのだが、セカンドのレギュラーで使えという声が強まっていた。
ゴールデンウィークが明けた岡山遠征のとき、ブレイザーに呼ばれた。
「小津球団社長からも岡田を使えと言われたが、それは私の信念に反する。江本にだけは言っておく」
翌日の広島移動時、ブレイザーはいなかった。
