広島の宿舎から球場へ向かうバス車中で、中西太ヘッドコーチが宣言した。

「今日からワシが監督や」

 ブレイザーは日本球界に多くの人脈を持っているわけではない。たまたま知っていた中西太さんをヘッドコーチに招聘していた。その流れからすればヘッドコーチが監督を代行するのは自然ではあった。

ADVERTISEMENT

 私の忠誠心の行先は宙ぶらりんになっていたが、集中力とともにプツンと切れた。ひとつには、後任が誰であっても、ブレイザーのために命を懸けてやってやろうと気を張っていたものが切れた。そして、後任が中西さんであることで決定的に切れた。私とは合わなかったのだ。

こうして伝説の「ベンチがアホやから」発言が生まれた

 ブレイザー監督1年目のキャンプで、揉めごともあった。外野で投手たちがランニングをしているのに打撃練習を始めて、やめてくれなかったことに文句を言いに行き、激高してしまったのだ。こっちが嫌っていれば、あっちもわかる。当然、嫌われる。それは仕方のないことだろう。いずれ干されるんだろうな、という予感があった。

 中西さんは監督として独特の類型だ。オヤジでもなく、アニキでもなく、教育者でもなく……。言うならば「スーパースター」か。現役時代にスーパースターだった人は、自分中心から、選手中心に気持ちを改めなくてはいけない。もちろん、選手全員にいい思いをさせることはできないから、役割を明確にし、適切に競争をさせ、納得いくように話をしなくてはいけない。

「ベンチがアホやから」発言当時、監督だったのが中西太氏。写真は1980年に撮影したもの ©文藝春秋

 落合博満は、スーパースターの自分を捨て、オヤジ監督になることを選んで成功した。しかし、中西さんはスーパースターのままだった。教え上手のカリスマ打撃コーチであるうちは、スーパースターのままでも良かったが、監督はそれでは務まらないというのが私の考えだ。「名選手必ずしも名監督ならず」は、昔から言われる言葉だ。その意味するところは、そういうことなのだろう。思いあたる監督はたくさんいる。

 忠誠心が切れたこの年、私は8勝に終わった。10年連続を目指していたフタ桁勝利が8年で途絶えてしまったのが残念だった。チームも借金12で5位に沈んだ。翌1981年を前に、私は球団にトレードを直訴したが慰留され、渋々残留した。選手会長は小林に任せた。

 この年はシーズン当初からひどい仕打ちを受けた。キャンプでもオープン戦でも、監督からも投手コーチからも先発なのかリリーフなのか明言がない。調整登板の機会もない。結局、シーズンに入っても場当たり的に先発もリリーフもやらされた。

 そして8月の終わり、溜まっていたフラストレーションがついに爆発し、私のプロ野球生活は終わったのだった。

次の記事に続く 年俸が高いだけで、スターとは呼べない…江本孟紀が「村上宗隆」「坂本勇人」「山川穂高」ら高額プレーヤーに感じる「圧倒的な物足りなさ」

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。