誰もが彼女のとりこになった

 生前に夏目がインタビューに応えた雑誌記事を読んでいると、中学時代、アメリカンスクールに通う日米ハーフのボーイフレンドができ、英語がめきめき得意になり、それにともないほかの教科の成績も上がったなどといった話を、じつに楽しそうにあっけらかんと語っていて、この人は誰からも好かれたのだろうなと思わずにはいられない。

©文藝春秋

 実際、仕事をともにした人は誰もが彼女のとりこになったという。それは彼女が常に周囲に気を遣っていたからでもある。マネージャーが彼女の没後明かした話によれば、新しい作品の現場に入るときはいつも、スタッフ全員の名前を教えてほしいと頼んでいた。それはスタッフを「照明さん」などと職名ではなく、名前でちゃんと呼びたかったからだという(森英介『優日雅 夏目雅子ふたたび』実業之日本社、2004年)。若い駆け出しのスタッフの名前まで覚えたというから、呼ばれたほうは感激したことだろう。

 1984年に伊集院静と結婚したときも、夏目は自分から押しかけたと公言したが、伊集院に言わせると結婚は二人の意志でしたのであり、彼女は彼が先妻とのあいだに儲けた子供たちに気遣ってそう発言したにすぎないという(伊集院静「愛する人との別れ~妻・夏目雅子と暮らした日々」、『大人の流儀』講談社、2011年所収)。

ADVERTISEMENT

伊集院静氏から贈られた婚約指を見せ微笑む〔1984年撮影〕 ©文藝春秋 撮影=飯窪敏彦

 夏目は結婚後、半年ほど休業し、復帰後の初仕事に舞台を選んだ。休業中に米ニューヨークのブロードウェイで、かつてミニスカートの女王と呼ばれたツイッギーの芝居を観て、舞台に惹かれたという(『週刊朝日』1985年1月18日号)。演出家の福田陽一郎は彼女のため、フランスの劇作家マルセル・アシャール作のコメディ『愚かな女』を用意した。主演の彼女は、好きな男の罪をかぶろうとして殺人を犯したと言い張る女性の役であった。

 それまでにも舞台には『機関士ナポレオンの退職』(1980年)を皮切りに、新橋演舞場の新装開場記念公演である『築山殿始末』『露地に咲く花』(1982年)に出演し、それぞれ共演相手の森繁久彌、杉村春子という大御所から教えを受けている。しかし、主演舞台は初めてだった。福田はこのときを振り返り、《初舞台の彼女は潑剌としていた。声もよく通ったし、少し単調なところはあったが、初舞台の俳優はみんなそうだ、初めから完全な俳優は居ない。大事なことは、可能性と舞台が好きかどうか、である》と書いている(福田陽一郎『渥美清の肘突き――人生ほど素敵なショーはない』岩波書店、2008年)。彼女としても、3年後にミュージカルをやるという目標を掲げての第一歩という位置づけであった。

©文藝春秋

夏目の口の中に大きな腫れ物が

 だが、1985年2月3日に開幕して5日ほどして、彼女は口の中にできた大きな腫れ物を福田に見せた。福田はよくこれでセリフがしゃべれたものだと思いながら、休演日に必ず病院で診てもらいなさいと告げた。休演日は2月13日で、かかりつけの診療所に行くと、医師からあまりの顔色の悪さに驚かれ、以前バセドウ病の手術をしてもらった病院に連絡をしてくれた。翌14日の終演後、深夜にその病院で改めて診察してもらうとすぐにドクターストップがかかった。