福田はあの役は彼女のものだと言って、代役を立てず翌日からの公演の中止を決める。結果的に最後となる公演が行われた日はバレンタインデーで、彼女は開演前にスタッフ全員にチョコレートを「これ、私の気持ち」と言って配って歩いていたという。

7ヵ月の闘病の末に…

 それから7ヵ月の闘病の末、夏目雅子はこの世を去った。その突然の死を受けて多くの人が彼女について書いたり語ったりした。そこで彼女に冠された言葉について、ドラマ『ザ・商社』を演出した和田勉は次のように書いている。

《急に亡くなったのだから仕方ないことだとしても、なかに「稀有な」とか「大輪の」、なかに特に「名優」などという言葉もあって、笑ってしまった。たぶん、故人になってしまった彼女自身がこれらの言葉が(こそばゆくて)いちばん笑っているのだろうけれど、夏目雅子はそんな「うまい」女優でもなければ「美人で・大輪」というわけでもなかった。こういうかたちで彼女をほうむってほしくない》(和田勉「競争という勉強を生きていた夏目雅子」、『キネマ旬報』1985年11月上旬号、『女優 夏目雅子』キネマ旬報社、2015年に再録。原文では「ほうむって」に傍点))

 実際、夏目自身のなかでも自分はまだ俳優として発展途上だという意識が強かった。あれだけ高い評価を受けた『鬼龍院花子の生涯』での演技でさえ、《最後は34歳ぐらいの設定なんですけど、どう見ても25歳の女の子が、気張って演技してるというのがみえみえで恥ずかしかった。(中略)早く年上の女がやれるようになりたいわ》と反省しているほどだ(『non-no』1982年9月5日号)。

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もし今、夏目雅子が生きていたら

 めざましい活躍を見せる夏目に対し、多くの映画・テレビ・演劇関係者が企画を用意していたが、彼女の死によって幻に終わったものも少なくない。たとえば、夏目が生前、「私をお嬢さん女優から引っ張り出してくれた」恩人として和田とともに名前を挙げた脚本家の市川森一は、彼女を主役に、ビリー・ワイルダーとマリリン・モンローの取り合わせのようなコメディを書きたいと本人に話したことがあったという。

 市川はNHKの大河ドラマ『黄金の日日』(1978年)や『露玉の首飾り』(1979年)など彼女の出演ドラマを5作書いている。彼にとっても夏目の存在はあまりに大きく、《彼女が生きていれば映画、テレビ界の様相は変わっていたかもしれない。彼女の死は業界全体の損失だった。そういう人はめったにいるものではない。女優なら夏目雅子、作家なら向田邦子の二人だけだった》と、没後10年以上経ってもその死を惜しんだ(『週刊読売』1996年10月27日号)。

©文藝春秋 撮影=飯窪敏彦

 もし、夏目がその後も無事に生き長らえたとして、果たして67歳になったいま、どんな女優になっていたのだろうか。それとも「夏目マサカ」と呼ばれたように意表を突いて、まったく別の道を歩んでいたりするのだろうか。こうして、さまざまな可能性が想像されることこそ、夏目雅子がいまなお人々から語られ続けるゆえんなのだろう。

最初から記事を読む 人気絶頂で白血病に…女優・夏目雅子(享年27)が生前に話していた“復帰後のプラン”「最初の仕事はグラビアで…」

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