ユニセフ親善大使のきっかけは『トットちゃん』と緒方貞子

 ここでは、ひとまずテレビと書くけど、一九五三年に放送が始まったばかりの頃は、ラーメンが三十五円くらいの時代に一台二十五万円くらいしたこともあって、全国にテレビが八百六十六台しかなかった。それが、どんどん認知度が高まって、テレビの台数も飛躍的に伸びていき、特に一九五九年に、いまの上皇陛下、上皇后陛下のご成婚パレードが中継されたことも手伝って、日本全国にあまねく広がっていった。

成婚パレードの様子 ©文藝春秋

 さて、ニューヨークから帰国して、一九七六年に「徹子の部屋」が始まり、八一年に『窓ぎわのトットちゃん』を出版した後、八四年に、私はユニセフの親善大使になった。当時の事務局長で、世界中から敬愛されていたジェームズ・グラントさんから、「世界中で、一年間に千四百万人もの子どもが、何もできないまま、死んでいっています。なんとか今世紀中に半分にしたいんです。親善大使として、協力してくれませんか」と連絡が来たのだ。

 グラントさんが、国連公使だった緒方貞子先生に「誰か親善大使になれそうな人を紹介してほしい」と言ったら、緒方先生は英語版の『窓ぎわのトットちゃん』を渡して、私を推薦してくださったのだという。グラントさんはすぐに読んで、「これだけ子どものことが分かる人だったら、親善大使に適任だ」と思ってくださった。ニューヨークにあった英語版をすべて買い占めて、ユニセフの職員のみなさんにも配ってくれたそうだ。

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「せっかくなら、アフリカに行ってみたいです」

 もちろん、グラント事務局長のおっしゃる趣旨には大賛成だし、私自身が子どもの頃、戦争で焼野原になった日本に、食糧などの援助をしてくれたのはユニセフだったから、そのご恩返しもしたかったので、二つ返事でお引き受けした。

緒方貞子 ©文藝春秋

「すぐに、どこかへ視察に行ってほしい」と言われて、その頃はアフリカの飢餓が大きな問題になっていたから、私は「せっかくなら、アフリカに行ってみたいです」と答えて、早速、タンザニア行きが決まった。

 タンザニアでは何年もまとまった雨が降らず、毎日三百人もの子どもたちが飢えで死んでいた。食べるものがなくて骨と皮ばかりになった子どもたちの様子は、報道の写真や映像で私も知っていた。でも、まだ本当に身近な問題ではなかったのだ。きっと、ヨーロッパやアメリカの方が近いし、近くの国の人たちが助けるだろう、といった思いもあった。