店員さんが下を向いてクックックッと笑って…
「わあー高いんだ、兄ちゃん、これ一万五千円もするけどいいの?」
と訊くと、兄ちゃんはあくまで親切に、
「もちろん、いいさ。サイズ、それでいい? きつくない? ちょっと歩いてみるかい?」
と言った。すると、それまで無口だった店員さんが下を向いてクックックッと笑って、すぐに顔をあからめて、「すみません」と謝った。私もおかしかった。もう「寅さん」の映画は始まっていて、シリーズが何本も続いていた頃だったから、店員さんにしてみたら、まるで寅さんが妹のさくらに靴を買ってあげてるみたいに思えたに違いなかった。
おまけに、兄ちゃんはもう一足、買ってくれた。二足の靴を袋に入れて店を出ると、兄ちゃんは「それだけでいいのかい?」と言い、私は「うん、すごく嬉しい。兄ちゃん、ありがとう」と答えた。
小沢さんたち、俳句の仲間は、それぞれ、あっちこっちの店に入って、時間をつぶしてくれていた。私が、こんな靴を買ってもらった、と報告すると、みんな口々に「よかったね」と言った。小沢さんはまた、「いいねえ、いくつになっても、そんなふうに、『何でも買ってやるよ』なんて言ってもらえて」と笑った。
兄ちゃんと私は、険悪な雰囲気になったことがある
兄ちゃんと私は、出会ったばかりの頃、険悪な雰囲気になったことがある。
テレビ放送が始まってから、まだ五年目くらい、NHKの「お父さんの季節」というドラマ(いま調べたら一九五八年、つまり昭和三十三年のことだ。洋食屋さんの下働きの役が兄ちゃん、そのお店の娘役が私で、二人は結婚する)の出演者の顔合わせで、初めて兄ちゃんと会った。
浅草のストリップ劇場のコントで鳴らした凄腕の役者、みたいな触れ込みだったけど、同時に、スタジオに入る時に、靴を脱いで入ろうとしたので、「舞台と違って、靴は脱がなくていいんです」と慌てて止められた、という話も聞いた。兄ちゃんが結核で埼玉春日部の療養所で二年近く過ごし、浅草に復帰して、ようやくテレビに出始めたばかりの頃だった。

