「肉を売りたかったので、コロッケは足掛かりでええと思ったんです。それが、あっという間に一人歩きしてしまって……」
なぜ、地方の小さな精肉店で作られるコロッケがこれほどまでに人々を惹きつけ、半世紀近くもの「待ち時間」を生み出したのだろうか――。
この信じられない数字の裏には、父から受け継いだ「客の顔を覚える」という泥臭い商売スタイルと、誰もが諦めてしまうような経営危機を乗り越えた執念の物語があった。
順調だったサラリーマン生活
旭屋のはじまりは大正15年(1926年)。石川県金沢市出身の祖父が、祖母と駆け落ちし、神戸の肉屋で修業を始めた。その後、競合店のいない地域を求め、高砂市に「旭屋」の看板を立てた。
海岸沿いの工業地帯であるこの町は、夕方5時頃になると、工場で働く人やその家族がひっきりなしに店を出入りした。肉だけでなく、夕食の1品になるサラダや、注文を受けてから揚げるとんかつが飛ぶように売れた。
新田さんが店を継ぐことになったのは30歳の時。当時、東京の大手宅配会社で手取りが100万円を超え、昇進の話が出ていたというほど、順調なサラリーマン生活を送っていた。
ある時、東京に遊びに来た妹から「お父さんが帰ってこいって言ってるで」と聞かされた。どうやら父の体調が芳しくなく、「店を継いでほしい」と言っているという。
まずは様子を見に行こうと実家に帰ると、父はすでに新田さんが通えるように食肉学校の入学手続きを済ませていた。いずれは戻るかもしれないとは考えていたが、これほど急な展開は予想外だった。
「まだ退職届も出してへんのに!」と思いながらも、跡を継ぐ準備を始めた。
常連客の好みを知り尽くした父
食肉学校で1年間肉の基礎を学んだ新田さんは、その後正式に家業を継ぎ、肉の捌き方や客の対応など学びながら店を切り盛りする日々が始まった。父は休む日もあったが、新田さんとともに店頭に立った。父の仕事ぶりを見て一番驚いたのは、客からの過去の要望をすべて覚えていることだった。