暴走族「ブラックエンペラー」の“マネージャー”に

――冬休みさんは、中学卒業後、「ブラックエンペラー」(1960年代末頃から90年代初頭にかけて存在した国内屈指の暴走族)に入ります。そのパワーが、どうして「ブラックエンペラー」に入るという方向に?

冬休み 頭は悪いんだけど、心が熱いヤツがいっぱいいたの。むしろ、学級委員とかの方が冷めているように見えたんだよね。なんだろう、私は熱い方に寄っていきたかった。熱いんだけどうまく表現が出来ない……そういう人たちが結果的に‟ヤンキー”と呼ばれているだけで、実際には仲間を助けるために行動できる人たちが多かった。そういう人たちをもっと知りたくなって、一緒につるむようになると、夜に遊ぶことが多くなり、やがて暴走族の一員になっていたという感じなんですよ。

暴走族「ブラックエンペラー」に入っていた頃の坂本冬休みさん 本人提供

――一つの社会勉強になると感じたわけですか?

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冬休み まさにそういう感じ。うちには一家団らんもなかったから、熱い人たちのマインドがすごく心地良く感じて。いつものたまり場へ行けば、必ず誰かがいるから。それに、本当にグレて親に暴力を振るったり、髪を真っ金金にするみたいなことはしなかった。高校だってきちんと通っていましたからね。

――家族は、冬休みさんが夜の集会に行くことに対してどんな反応を?

冬休み 不思議な家族だから、「気を付けていってらっしゃい」って。「神様にお経を上げてから行きなさいよ」とか(笑)。よく分かってないんですよ。

©石川啓次/文藝春秋

――とは言え、当時の「ブラックエンペラー」は泣く子も黙る暴走族です。自分が属している暴走族が、最大級の規模を誇る暴走族だという認識はあったんですか?

冬休み そこまで詳しくは分かっていなかったかなぁ。私は部活みたいなものだと考えていたから、「ピエロ」とか「スペクター」とか「関東連合」とかたくさんある部活のうちの一つくらいにしか考えていなかったんですよ。

 それに、私は「ブラックエンペラー」ではあったけど、後方部隊みたいな存在でね。例えば、特攻服に刺繍を入れるためにお金をサラ金で工面したり、他のメンバーを「いってらっしゃい!」みたいに送り出したり、バイクの竹やりが無くなったら竹やりを買ってあげたりする‟援助”が主な活動。部活でいうところのマネージャーみたいな感覚だったから、しゃがんでタバコを吸って「おーい」みたいな、暴走族丸出しみたいな感じはなかった。

――むしろ、そういう暴走族にあこがれを抱いていた的な?

冬休み 当時はそうだったと思う。あの人たちの運転技術ってすごいんですよ。二人乗りで100キロぐらいのスピードで走っているのに、後ろの人が前の人の背中から覆いかぶさるように運転したりする。前の人が握っているグリップの外側を握るんですよ、後ろの人が。そのまま、前の人はぐっと身体を下げて、そのまま後ろに交代する。もう曲芸ですよ。それで、千葉の市原から富士まで、料金所を突破しながら走るんだからヤバすぎでしょ。