京橋が台頭できたワケ

 京橋駅は片町駅の開業直後に産声を上げた。

 その頃はまだしがない小さな駅に過ぎなかったが、周辺に土地が余っていたことが奏功したのだろう。1924年には駅に隣接して鉄道車両工場(のちの近畿車輛京橋工場)ができる。

 寝屋川を挟んだ南側は陸軍の軍用地となり、京橋駅周辺は軍の将兵や工場で働く人たちで賑わった。

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 戦争が終わると、農業生産地と結んでいた片町線(学研都市線)のおかげか、駅の東側にはヤミ市が立つ。それが現在に続くバンカラな繁華街のルーツになった。

 

 軍事施設の跡は不発弾が多くて危ないとかで長らく放置され、鉄くずを漁る“アパッチ族”が徘徊。それが京橋の繁華街とも結び付き、いっときは“危険な町”のイメージも定着していたという。

 

 しかし、そんなイメージも徐々に払拭されて町は変わってゆく。

 1970年に近畿車輛の工場が閉鎖され、跡地はダイエー(のちにイオン)に生まれ変わる。1970年には京阪電車が高架化し、翌年に旧駅跡にグランシャトービルが完成した。現在の京阪モールの祖といえる商業施設もできた。

 

 その頃には空き地のままだった軍事施設の跡地の開発もスタートし、1970年代からいまに至るまで続々と高層ビルが建設されて大阪ビジネスパークとなった。

 大阪城京橋プロムナードが架かったのは1987年のことだ。1990年に地下鉄も乗り入れ、地下街のコムズガーデンが開業している。

 

 そんな町の激変に完全に取り残されたのが、片町駅であった。