描かれた男性の正体

 男性の後ろ姿と、血を流す子鹿というモチーフも、熊谷の実体験に由来する。

「描いてある男性は、私の祖父です。実家はイタリアン・ハイファッションを取り扱うブティックを営んでおり、裏手には遊郭街がありました。祖父は商品でもある華美なシャツをよく着ていました。シャツの背中に猟銃を持った人が描かれていて、その銃口が右の絵の画面に向けられています。銃で撃たれた子鹿が水のなかで血を流しているのですが、これはかつて私が猟に同行させていただいたとき目にした光景です。鹿は洋の東西を問わず神聖な生きものとされることが多いと同時に、食用としても重宝されます。祖父や鹿のことをシングルベッドサイズのキャンバスに描いているあいだ、私の頭のなかにはずっと、『メメント・モリ(死を想え)』という言葉が渦巻いていました」

《Say yes to me》(2点組)
© Arisa Kumagai / Courtesy of Gallery Koyanagi
Photo by Hikari Okawara
《Say yes to me》(2点組)
© Arisa Kumagai / Courtesy of Gallery Koyanagi
Photo by Hikari Okawara

 極端に横長なシングルベッドサイズの画面には、モチーフがぴったりと収まらず余白ができている。ぽっかり空いたスペースを、熊谷は漆黒で塗り込める。黒い絵具を使うのではなく、透明色を塗り重ねることで深みのある黒を出し、吸い込まれそうな闇を現出させている。

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オープニング当日の様子

 その闇の深さが生み出す明暗のコントラスト、緻密に描き込んだモチーフが醸し出す迫真性、そして描かれたシーンの前後まで想起させる物語性。一枚の画面にそれらすべてを詰め込んであるのが、熊谷作品の特質である。それゆえいったん絵を眺めはじめれば、目を逸らすことができなくなってしまい、観る者はその場にしばし立ち尽くすこととなるのだ。