筆者はこの指摘をかなり重要視しています。なぜかというと、駆け出しの頃に熟練の精神科医から正確な見立てを作るには傾聴するしか方法がないと教わっていたからです。上記の指摘が出るもっと以前より、発達障害をスクリーニングするための技法として、臨床現場では当人の「語り」は重要な指標として考えられていたのです。

それを踏まえると、森田さんは本当にADHDなのだろうかという疑問が湧いてきます。

ADHDなら職場以外でも問題があるはずだが…

読者の方々はADHDのタイプの一つである「不注意優勢型なのでは?」と思ったのではないでしょうか。これは多動性や衝動性はないものの、注意力が散漫であるがために、日常生活上の不都合が出ているというものです。

ADVERTISEMENT

しかし、これも該当しないのではないかと私は感じていました。なぜならば、彼が訴えている困りごとのほとんどは職場での出来事に集中しており、仕事以外には多動性・衝動性、そして不注意による損失が確認されないからです。逆を言うと、日常生活では落ち着いて生活している様子が確認できるのです。

ADHDは生まれつき脳機能に何らかの問題があるとされています。なので、職場でも家庭内でも、いつでも困りごとが起きているのが通常です。が、彼の場合は職場だけで困りごとが起きていることから、ADHDとは別の事情により、職場で思うように能力を発揮できていないと考えるほうが自然です。

ところが、森田さんは自身がADHDであってほしいかのようです。

「精神科診断を欲する動き」は過去にもあった

実は、人が精神科診断を欲するのは歴史的にも繰り返されてきました。18世紀前半から19世紀ごろにまで遡りますが、文学界ではゲーテ、音楽界ではシューベルトやショパンなどが、自らのメランコリー(現代のうつ病の概念に相当する)を芸術へと昇華し、世間に評価されるようになりました。

すると、メランコリーが芸術性天才的な証明であるかのように世間へ伝わり、内面的な悩みや孤立を抱えていることが「高貴の象徴」として捉えられ、特に中産階級や知識層がメランコリーの診断を求めるようになったのです。