昼も夜も働いて何不自由なく育ててくれたオカン

――経済的なこと以外で、お父さんがいなくて困ったことは。

彦摩呂 学校で「来週の図画工作で、お父さんの顔を描きますよ。今日、家に帰ったらお父さんの顔をよ~く見ておいてくださいよ」って言われて。家に帰って、お母さんに「お父さんの顔を描くねんって、図工の時間。うち、お父さんおらへんのに、どないしよう」言うたら、「私の顔描いたらええねん」って。

「いやいや、あなたはオカンやん」「ええやん。私の顔描いたらええねん。最後にヒゲ描け」言うて。そういう大阪のオカンやから。

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――お母さん、心強いですね。

彦摩呂 おかげで、僕もまわりから「なんでお父さんおらんの?」って訊かれても「おらへんねん。オカンひとりやねん」って。「離婚、離婚。離婚やねんって」って言うようになりました。運動会の騎馬戦や親子リレーの時は「うちはお父さんがいないからな~」って、ちょっと思うこともありましたけど、基本的にはお母さんが何不自由なく育ててくれましたね。

――お母さんは、昼も夜も働いて?

彦摩呂 昼は三洋電機に勤めて、夜は近くの食堂の洗い場にパートタイムで行ってました。家でも内職をして、ピップエレキバンの磁石を貼ったりしてましたね。

――お母さんひとりで、息子ふたりですもんね。

彦摩呂 いま考えると、相当がんばってくれていたと思いますね。僕も兄も、高校は私立に行かせてもらいましたし。兄貴はサッカーで北陽高校に行って国体を目指して。修学旅行なんかも、あの当時で沖縄とかだったから。

 で、僕も私立でしょ。中学までは公立だったけど、お母さんは「高校は私立に行き」って。「えー。オカン大変やからええわ。公立でいいわ」と言ったら、「いや、兄貴も私立に行ってるんやから、あんたも私立に行き」って。

 

小学校の途中で活発な子供にキャラ変

――小学校のころって、どんな子供でした?

彦摩呂 引っ込み思案でした。小学校2年生まで泣きべそでした。グラウンドで遊んでて、同級生にいじめられたんかな。泣いてたら、兄貴がバーッと飛んできて、「どないしてん。おい、誰や、泣かしたん!」とかいうてくれたりして。でも、3年生ぐらいから急に豹変して。

――どんなきっかけが。

彦摩呂 やっぱり次男特有の、兄を見て要領を覚えるというか。学校の友達と仲良くなってくると、クラスの中心のグループに入っていって、お楽しみ会とかで劇をやったり、いろんな企画を作って。小学校3年生か4年生あたりで、すごく活発な子になりましたね。