「うわぁ、海の宝石箱や~!」「お肉と野菜とタレの騎馬戦や~」など、独特のセンスに満ちたフレーズを繰り出すグルメリポートでお馴染みの彦摩呂(59)。

 今年で芸歴37年目を迎えた彼に、モデルとして活躍していたデビュー前、幕末塾の結成、80年代末にアイドルとして活動することの難しさなどについて、話を聞いた。(全4回の2回目/続きを読む)

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バイト先のファミレスでスカウトされてモデルに

――高校に入ってから始めたファミレスのバイトでは、男前だったことからホール係を任されたと。男前ぶりによろめく客などもいたのでは。

彦摩呂 ファミレスにプロのカメラマンがお客でやってきて、僕を見るや「写真撮らせてくれへん?」って言われて。プロのカメラマンさんにそう言われて悪い気しないから「どうぞ」って撮ってもらって、しばらくしたらその方が「紹介したい人がいる」と。

 で、引き合わせてくれたのが地元のモデルクラブの社長。社長から「ちょっと、うちでレッスンしなさい」と言われて「無理です。170センチしか身長ないのに、モデルなんて」なんてまごまごしてたら、「君にピッタリのモデルの仕事があるから大丈夫。ポージングだけ覚えて」ってことになって、毎週2時間ぐらい練習していました。それが17歳のとき。

「僕にピッタリのモデルの仕事」っていうのが、スーパーマーケットの紳士服売り場のポスターとかでね。スタジオに行くと、ストレッチャーにスーツの上下に靴が全部セットになったものが30着ぐらいドバーッと掛けられている。それを上から順番に着替えて、全部ポーズを変えて撮って。当時はMサイズ。もう一回言いますよ。Mサイズ。いま、4L(笑)。

彦摩呂さん

――モデルの仕事は稼げましたか。

彦摩呂 当時、アルバイトの時給が480円ですよ。ところが、1日着せ替えのモデルをやったら3万円。それがワンシーズンごとにあったわけですからね。レインコートのカタログなんかもギャラが良かったですね。

――ファミレスのバイトは辞めた?

彦摩呂 いや、ファミレスでコミュニティができていたので続けていました。そこで恋愛したり、バイト仲間と山に行ったり、ドライブに連れていってもらったりとか。もう、青春ですよ。そんな日々を送りながら、モデルの仕事があったら行くという感じで。