「『命をかけてこの仕事をやるんだ』という覚悟をむき出しにしながら、60人以上の人にプレゼンテーションしましたね。根っこにあるのは、自分が惚れ込んだ商品をプレゼンする化粧品販売と同じですね。闇雲に当たっていくわけではなくて、事前に下調べして、誰と誰がどんなふうにつながっているか相関図を描いて、リストアップした上でカテゴリー分けして、話を聞いてくれそうな人から順番に声をかけていきました。理解してくれた人の周囲の人がまた発注してくれて、さらにその周囲の人が発注してくれる……という飛び石現象みたいな感じで顧客を増やしていきました。超不器用なやり方だと思うんですけど、『決して無理はしない』という気持ちで必死でした」
起業して間もなく、2歳上の姉が仕事を手伝ってくれるようになっていた。姉は自分の子どもと一緒に、大津さんの息子のことも見てくれたため、仕事に集中することができた。1ヶ月後にはアルバイトを1人採用し、3ヶ月後にはアルバイトが3人に増えた。事業が軌道に乗り出したと思ったのも束の間、またもや大きな壁にぶち当たることになる。
納豆1パックを息子と分け合う極貧生活
設立から10ヶ月目、大津さんは金銭的にかなり苦しい状態に陥っていた。理由は2つある。夫の会社を手伝っていた昨年の住民税の支払いが高くついたことと、技術習得のために東京へ通う旅費や研修費が嵩んでいたことだ。すでに事業の収入は得ていたが、足りない分を補填するとすっからかんになってしまう。“働いているのに極貧生活”という、厳しい状況に追い込まれた。
「当時はどうしてもお金がなくて、納豆1パックを息子と半分ずつ分け合ったこともあったんです。金銭的に貧しくても、心が貧しくならないように『納豆豪華ご飯』って名前をつけてました。だからたまに1人1パック食べられた時なんか、2人で大興奮でしたよ」
事務所として借りている「雅荘」のアパートで、車に傷をつけられるなどの嫌がらせをされたことも大津さんの心を苛んだ。153cmある身長に対して当時の体重は40kg以下。明らかに不健康な状態だが、心配をかけまいと周囲には「大丈夫、大丈夫」と言い続けた。だが、最初に「大丈夫じゃない」と気付いたのは、ずっと起業に反対していた母だった。
「実家に顔を出したら『ご飯を食べるお金にしなさい』と封筒に入ったお金をくれたんです。お金はもう返しましたが、あの時に母が気付いてくれなかったら、今の私はありません」
大津さんは厳しい時期を乗り越え、事業は少しずつ安定。2年後には従業員10名を超えるまでに成長していた。
